次いで軽井沢の旧道を挟んだ右側、テニスコート、万平ホテルのある側である。
アメリカ人の別荘は愛宕方面に比べて、こちら側が圧倒的に多い。
中央"Meeting Place"と書いてあるのは「集会堂」の事だ。

以降Part 1に倣って一軒ずつ表示する。「続」は拙著「続 心の糧(戦時下の軽井沢)で紹介していることを表す。
ハウスナンバー 家の状態 続 所有者 1930年
1025番 B- 〇 J.V. & E.L. Martin リード博士(一般)
1040番 B E.S. Morton 同左(一般)
1073番 B- 〇 S. M. Erickson 同左(宣教師)
1074番 B 〇 S. M. Erickson 同左(宣教師)
1238番 B- ○ Marie Juergensen ー
⇒「旧ジョルゲンセン邸」として現存
1246番 B 〇 O.R. Grimesey 同左(一般)
1248番 B 〇 O.R. Grimesey 同左(一般)
1279番 B ○ R.D. McCoy 同左(宣教師)
1287番 B- ○ H.W. Seymour 同左(宣教師)
⇒現存する同志社大学のシーモア別荘
1297番 C Elisabeth Binford 同左(宣教師)
⇒ビンフォードが夫と共に来日したのは1899年の事であった。再来日以後は,本 拠地 を水戸より下妻に移し,本 格的に農村伝道を 目指した。軽井沢の別荘はまさに静養の場所であったのだろう。1936年に帰国し再来日を夢見たが果たせなかった。別荘は名義を変えずに日本人同僚などが使用したのであろうか?
1306番 B- ○ G.W. Schroer 同左(宣教師)
1319番 B- ○ L.A. Lindsey & K.I Hansen 同左(宣教師)
1335番 B- American Trading Co. A.M. Pinsent(宣教師)
⇒1877年、同名のアメリカの会社の日本支所が設立され、今も続いている。唯一企業所有の別荘であった。
1345番 B- G.W. Schroer Henry.. K. Miller(宣教師)
1358番 B H.V. Nicholson 同左(宣教師)
1372番 B- Anthony Raymond ー(GHQは1272番と誤記)
チェコ出身のアントニン・レーモンドの別荘。レーモンドは1916年にアメリカの市民権を取得し、戦時中もアメリカで暮らした。終戦時に所有していたのはここだけだ。1933年に建てたという南が丘の「夏の家」とは別のものだ。また899番も戦前はレーモンドの所有であったようだ。詳細はこちら
1392番 B ○ A. Oltmans 同左(宣教師)
⇒今も同じ場所には古そうな別荘が建つが、、、
1406番 ○ A. G. Devin 同左(一般)
1416番 B‐ ○ C. W. Hepner 同左(宣教師)
1420番 B- ○ J. Shoeffe R. J. Dosker(宣教師)
1421番 B- ○ C.W. Hepner -
2272番 B ○ M.E. Deniele -
2273番 C ○ M.E. Deniele -
土地のみ
1004番-8 Nettie Ruppert
1004番-5及び30 Congregational Missionaries Asso.(会衆派教会)
1342番-27,51,58,55,96 Esther Klembell
1342番-61及び62 C.H. Evans
2451番-1及びRo C.D. Bizler
土地のみではどのハウスナンバーもさらに区分けされている。この辺の経緯は不明だ。
1930年別荘所有者は「戦争中の軽井沢の外国人別荘の変遷とコミュニティとの関係」花里 俊廣
を参照しました。
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本編に関連する『続 心の糧(戦時下の軽井沢)』はこちら
