テレビ東京のアド街ック天国は自分の情報源としてとても重宝している。趣味のパスタがメインであるが。先日の「雑司ヶ谷」の特集で「旧宣教師館」が紹介されたので早速訪問してきた。
ジョン・ムーディー・マッケーレブ宣教師は1892年に日本にやってきて築地に居を構える。1907年(明治40年)雑司が谷に移り住み、以後この地を拠点に、太平洋戦争開戦直前まで、さまざまな困難に遭いながらも、ピューリタニズムに基づいた宣教活動を続けた。
豊島区内に現存する最古の近代木造洋風建築であり、東京都内でも数少ない明治期の宣教師館として大変貴重なものである。設計者は不明。(同館ホームページより)
入口付近の撮影。
白い板壁に緑の縁取りは横浜のカトリック山手教会の司祭館を思い出させた。(後述)
玄関の反対に回ると遮る木も少なく、美しさが引き立つ。
カーペンターゴシック様式の特徴玄関ポーチの方杖(ほおづえ)。変形するのを防ぐための斜材。
自分として興味を持った点。
1 館内にはマッケーレブの長女アニー・ルイスの写真があるが、撮影場所が築地の自宅か軽井沢の別荘地で撮影されたものと思われると書かれている。写真の背景を見ると、板張りの別荘が主体の軽井沢ではない気がするが、軽井沢の別荘には毎年訪問したのであろう。古い軽井沢の別荘の地図などを見てもマッケーレブの名前は見つからない。軽井沢にはいくつかの宗派は各地の宣教師の夏休み用の別荘を所有していたのでそれを利用したか?ネットべ調べる限りはマッケーレブの宗派は分からない。(聖公会とかメソジスト派とか)
2 マッケーレブ一家は41年10月の日本郵船大洋丸で日本を離れ、日米開戦前にアメリカに戻ることが出来た。開戦直前に日本郵船が本国引き揚げ用に3隻の船を出した。その内の一隻が大洋丸だ。
司祭館は古き良き建築物としていくつか残されている。以下いくつかを紹介する。
ブラフ18番館(横浜)
白と緑の組み合わせは司祭館の特徴かと思ったが、ここは元は関東大震災(1923年)後に山手町45番地に建てられたオーストラリアの貿易商バウデン氏の住宅。戦争中はドイツ人フランツ・グロンビクがここに住んでいた。
そして戦後、司祭館となる。(プロテスタントは宣教師館でカトリックは司祭館と呼ぶ)
松本の旧司祭館
1889年にフランス人のオーギュスタン・クレマン神父により、松本城のすぐ北側に建設された洋館。中も見学できるが、あまり印象に残る展示物等はなかった。司祭館ですから、、、以後、100年近くにわたり松本カトリック教会の宣教師たちの住居として使用された。
司祭館は教会に隣接しているものと思うが、ここは少し距離がある。調べると同館は現テレジア幼稚園(松本市丸の内9)にあったものが1991年に現在の開智小学校の横に移築された。
戦時中に松本に滞在したドイツ人のライムント神父の住所が「丸の内10」なので彼もここに住んだことは間違いない。
「ライムント神父(シレジア出身のフランチェスコ会修道士。彼については、愛すべき、ユーモアのあ る、そして何より面倒見のいい人だと聞いていました)がすぐに、私のために 料理をし,官舎を整えてくれる家政婦を仲介してくれました」とか
「グラスニつとジョッキ一杯の水を持ってき て、『普通のワインはない。ミサ用のワインしかない。神様はきっとご理解く ださるだろう』と言いました。何のためらいもなく彼は粉末ワインを水に入れてかき混ぜました。こんなことはあとにも先にもお目にかかったことはありません」と同じく戦時中松高教師だったヘルムート・ヤンセンは語る。
その後ヤンセン夫妻は軽井沢に疎開し、終戦時松本に滞在したドイツ人、いや外国人はライムント神父だけであった。
横浜にはあと2軒の歴史的建造物の司祭館がある。
カトリック横浜司教館(旧相馬永胤邸)
山手カトリック教会の司祭館。元は専修大学創立者の一人相馬永胤の邸宅で1910年に東京、戸塚に建てられ、1937年に洋館部分を移築。更に2000年にオリジナルに近い形に復元した。横浜市認定歴史的建造物。
すぐそばの「カトリック横浜司教館別館」。1927年建築の木造2階建てで、横浜市認定歴史的建造物。
新しい山手カトリック教会司祭館。以前の建物は移築され、「ブラフ18番館」として公開されていることは先に紹介した。教会が大きいのか紹介したように司祭館は現在3つあるようだ。
クライストチャーチ(現ショー記念礼拝堂) 軽井沢
写真は戦後まもなくの1947年の撮影で、現在は新しい宣教師館が建っている。
こちらについては拙著「続 戦時下の軽井沢」で説明した。
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