本日(23年4月8日)の朝日新聞土曜版に、山田洋次監督が「夢をつくる」という連載の中で次のように書いている。

 

「戦前に築地小劇場を設立した伝説的な演出家の土方与志さんがシェークスピアの喜劇を働く若者たちに教えていて、そこに聴講生として参加すればよいと、山川(幸世)さんに言われました。(中略)

土方さんはスタニスラフスキー・システムという演劇の理論を、手に取るように教えてくれ、演劇におけるリアリズムとは何かということを少しは理解できるようになりました。土方さんは元伯爵だった人、、、、(後略)」

 

今回土方与志の名前を見つけとても嬉しく思った。山田監督はこの連載の中で、実は少し前に私の父についても書いていらっしゃる。こちら

以下は22年6月12日に筆者が書いた文章である。

 

演出家土方 与志 (ひじかたよし)に関し、筆者は拙著『日本郵船 欧州航路を利用した邦人の記録』で次のように書いた。

「『赤い伯爵』の母堂渡仏
ソ連粛清工作の嵐に追われてモスクワを脱出、今パリ近郊の病院に胸を病んで、募る望郷の心に流転を嘆く『赤い伯爵』土方与志氏の母堂愛子刀自が、親戚の反対を押し切って渡仏の途に上がった。
2個のボストンバックを書生の三木道夫(31)君に持たせて、1938年6月22日午前9時の『つばめ』に乗車、23日神戸出帆の郵船伏見丸一等船室に三木君を伴い乗船した。だがリウマチと胃下垂のため最近身体の自由すら失っていた刀自(母親の事)に、40日間の船旅はさぞこたえることであろう」

土方は伯爵位を踏襲するが、日本プロレタリア演劇同盟の代表として、妻・梅子や佐野碩とともにソ連を訪問した後、そのまま亡命する。そしてその後パリに移った。そうして母親がパリに迎えに行ったのだが、すぐには帰国に結び付かなかった。日本の土を踏むまでにそれから2年経過する。

「土方一家はバルト海を経由してパリに難を避け、その後アルプス山麓の小村に移住した。しかし生活の窮迫、子供たちの教育をどうするかという問題、ドイツ軍のフランス侵入、フランスの屈服という事態があり、土方はついに帰国を決意する。1940年7月8日横浜に上陸、直ちに警察に捕らえられ、土方夫妻の7年に近い亡命生活は終わった」

(追いつめられた知識人 ― トーマス・マンと土方与志  和田洋一)

 

なおフランスにおいて土方に帰国を説得したのは、細谷資芳(ほそやすけよし)海軍武官で、日本側では石田太郎海軍大佐が保証人となったと筆者は細谷の親族の方から聞いた。細谷は土方に「先ずは人間たれ」と説いたそうだ。

 

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