軽井沢に疎開した外国人は抑留者であったのか?という議論もあるようだ。疎開者であったロイ・ジェームスの様に「抑留の意味は軟禁ですよ」と回想に「抑留」という言葉を使っているものもある。(『心の糧(戦時下の軽井沢)』12ページ)

抑留の定義は国際法上は「捕虜または自国内にいる敵国人の身体を拘束したり、自国の港にある外国船舶をとどめおいたりすること」とある。これからすると無国籍の白系ロシア人等は敵国ではないから抑留者ではない。また日本政府は終戦直後に「抑留者リスト」を作成しているが、そこには抑留場所として軽井沢の地名はない。つまり日本政府にとって軽井沢の外国人は抑留者ではなかった。

そんな抑留者と軽井沢の関係を物語る外交文書が見つかった。
1 1945年6月5日付けスウェーデン公使館の外務省宛口上書
「ノルウェー人の2人の船長 K.B.Einersen (エイナルセン), Carl Josefeen(カール・ヨセフソン)は目下横浜刑務所から釈放されて、聖母病院(東京淀橋区)に滞在して軽井沢に移る準備をしている。スウェーデン公使館は移送と、彼らに課せられた条件を順守することを約束する。
横浜刑務所の所長からも、警視庁からも異論は出ていないので、早急に軽井沢に移送の許可を出してほしい」

まもなく許可は下りたようだ。こうして終戦時に2人のノルウェー人が軽井沢に滞在することになる。共に年齢は70歳、住所は2272番だ。1940年にドイツに占領されたノルウェーは、ロンドンに亡命政府をつくり、連合国の一員として活動した。そのため、ノルウェー亡命政府は1942年3月30日に対日断交を行い、在日公使館を閉鎖した。しかし交戦状態ではない。またふたりは刑務所に入っていたということは抑留ではなく、当時の日本の法に違反をしたという理由であろう。高齢故に軽井沢での軟禁を認めた
 
2 1945年6月14日付けスウェーデン公使館の外務省宛口上書
「オランダ及びベルギーの利益保護にあたるスウェーデンは1944年3月23日付け口上で抑留中の修道士、及び修道女をそれぞれの修道院に帰還させるよう要請した。
その後、修道女を抑留中の関口抑留所は焼失し、その結果抑留者はその所有物を全部焼失したので、彼女らは修道院帰還要請が許可されることが一層望ましい」と要望を出した。
カトリック関口教会が空襲により炎上したのは1945年5月25日のことだ。続けて
「マリー・フランシスコ派尼僧等はすでに軽井沢1050番に移転しおり。院長は官憲の許可あれば、現在聖母病院にいるベルギー人修道女3名、オランダ人修道女2名の収容について、喜んで(軽井沢に向かう)手配すべき意向を明らかにしている」と軽井沢に移送することを求めた。

終戦15日前の7月30日、外務省は「協議の結果、尼僧等の退所は遺憾ながら承認しがたき」と拒否する。修道女だからと抑留が解かれることはなかった。高齢もしくは病気の場合のみ、釈放の対象になった。


『大正・昭和カトリック教会史 3 』によると軽井沢に疎開したのはイエズス会、神言会、サンモール会、マリアの宗教者フランシスコ修道女会、イエズスの聖心会、聖体礼拝会、カルメル会などであった。

先の口上書にあった軽井沢の1050番には終戦時に次のような国籍の修道女が集団で居住していた。
ベルギー人も2名いたが、関口抑留所の修道女とは別人のはずだ。

1050番
イギリス   1名
フランス   3名   (うち2名は横浜一般病院看護婦) 
イタリア   1名  
ハンガリー 1名 (横浜一般病院看護婦)
ベルギー  2名
スペイン  1名

軽井沢にはかなりの人数の修道女が疎開していた。彼女らは国別ではなく、先に述べたような会派別に暮らした。
860番  イギリス人3名、ドイツ人3名、ポーランド2名、オーストラリア3名他で計16名
885番  スペイン人14名
1400番 アイルランド、イタリア中心に16名
1667番 アイルランド2名他の4名
2481番 フランス人4名。さらに2418番の2名のフランス人は2481の記入ミスで計6名か。

 

 

筆者の出版物

『心の糧(戦時下の軽井沢)』はこちら

『日本郵船 欧州航路を利用した邦人の記録』はこちら

『第二次世界大戦下の欧州邦人(イタリア編)』はこちら

 

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