日本とドイツ(当時はプロイセン)の国交が樹立したのが1861年、初代領事マックス・フォン・ブラントが横浜に着任したのが1863年だ。
ドイツ人の社交組織であるクルップ・ゲルマニアが出来たのが同じ1863年で、1868年に山下町235-237番(今のみなとみらい駅の上の「ユーラシア文化館」あたり)に立派な建物が出来る。ここは開港初期の代表的外国人の建物としてよく紹介される。
そして1923年の関東大震災後は山手の4番に移る。
1908年に親睦の場所として同様に「ドイツ人の家」(Deutsches Haus)が山手25番に建てられる。先行して学校と教会が設けられたが、これは1913年に炎上してしまう。1940・41年のJapan Directoryではドイツ人の家と、クルップ・ゲルマニアが山手5番に併記されている。この時期同一の組織になっていたと理解してよいのであろう。
筆者はGHQの資料から終戦直後のクルップ・ゲルマニア(Klub Germania)に関する資料を見つけた。終戦から間もなくしてGHQは日本のドイツの資産も調べ上げた。クルップ・ゲルマニア、ドイツ人学校が調査の対象となった。
国会図書館の許可を得て紹介する。転載はご遠慮ください。

建物は門だけ残り空襲で焼けた様だ。

彼らのイラスト図には敵性資産として「横浜ドイツ人学校」も載っている。左右にわたる道は山手本通りで左の建物は山手学院(フェリス女学院)となっている。中央の教会はカトリック山手教会。トンネルは山手隧道。

クルップゲルマニアの終戦直後のメンバーリスト。Members list at present in Japanと英語で記されている。
一番上のペーター・レーベダック(Peter Levedag)は1895年の加入。筆者はブログで「戦時下横浜の外国人」の中で彼の息子2名を紹介している。こちら。
次のカール・フォークト(Karl Vogt)は旭台 日本の弁理士の資格を取り1910年、横浜で”Crosse, Heath & Vogt”法律特許事務所を設立その後「フォークト&ゾンダーホフ」特許事務所を設立。
3番目のM.S. ウィルスムは何とオランダ人。筆者はすでに「戦時下横浜の外国人」と「長延寺と初代オランダ領事館の痕跡」で紹介している。
5番目のワルター・マールは横浜本牧に暮らし、疎開地は河口湖、そこでは独逸協会船津地区支部長を務めている。(1911年~)
クルト・ウムプハウ(Kurt Umbhau 1928~)は横浜中区に暮らし、息子のヴェルナーは戦後SJCに通う。兄妹のカールはドイツ政府のためにアヘン貿易に関わる。そのため戦後は強制帰国させられたはずだ。
なおこのリストにはまもなくドイツに送還される親ナチスのメンバーはいない。リストは2枚目があり最終のジョーン・バーシュ(John Baasch)は1935年の加入である。1939年以降に日本に来たドイツ人は、強制帰国の対象であったから、彼らは全員日本滞在が許されたはずだ。バーシュ家も残り息子のハンスはセントジョセフに通っている。
また戦後クルップ・ゲルマニアの活動に関する報告等は、筆者が探した限りでは見つからない。活動は停止となったのであろうか。
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筆者の出版物
『心の糧(戦時下の軽井沢)』はこちら
『日本郵船 欧州航路を利用した邦人の記録』はこちら
『第二次世界大戦下の欧州邦人(イタリア編)』はこちら