東京から軽井沢を経由して長野方面に向かう信越線は、終戦前後も走っていたことは『心の糧』の中で書いた。(153ページ)
東海道線に比べて、沿線には重要な軍事施設なども少なかったので、空襲も少なかったのではと筆者は考えている。先日紹介した芹沢光治良の『戦中戦後日記』でも上野と軽井沢の間を行き来する様子がしばしば登場する。



写真の軽井沢旧駅舎は1910年に建てられたものを再整備。「戦争を体験した駅舎」と言えよう(筆者撮影)

 

<1943年>
7月28日記
25日の午後には思い切って出発する。(沓掛へ)
日曜日の切符なので、前日買うのに苦労した。12時50分上野発、6時沓掛の家に着いたが、汽車は意外に空いていて、家内もいつになく汽車に酔わず。持参したマホー瓶のなかのコーヒーのおかげなるべし。
→まだ本格的な空襲、疎開が始まる前なので、軽井沢までの汽車旅行も余裕があったのだろう。

<1945年>
6月15日
8時の汽車で軽井沢に出た。電車(汽車?)が出るので乗ったが、実に混んで貨車にまで乗客がいっぱいであった。乗客のうちに蕨摘みもいた。
→これは彼の住む最寄り駅「沓掛」(今の中軽井沢)から隣の「軽井沢」までの描写だ。軽井沢と近郊を結ぶローカル列車は貨車も連結し、そこにも乗客がいた。

6月26日
4時に目覚ましが鳴った。(女中の)明子さんは4時に起きて用意したのであろう。(上野発)6時25分の汽車に乗ったのは自分勝手の考えに執着しすぎたのであろう。
5時10分前に、あのトランクを背負って出掛けたが、明子さんがリュックを背負って上野へ、岡村さんは荻窪まで見送ってくれた。上野には6時10分着。乗客はすでに入場した後だが、軽井沢行きの箱(車両)に腰をかけられた。軽井沢で貨車に乗る。半時間遅れていた。疲れていたが早速畑に出る。
→これは東京から軽井沢に向かう様子だ。上野発浅野6時25分、筆者が唯一持つ1943年の時刻表では6時25分発が一番列車で、軽井沢着10時25分着となっている。東京大空襲の後だが、列車は時間通りに運行されたようだ。
座ることができたので混雑はさほどひどくなかった。疎開の動きもひと段落したのか、それとも事前に切符を入手した人のみが乗車できたからであろうか。
軽井沢で乗り換えたローカル列車はまた貨物列車だ。

7月20日
(名古屋から軽井沢に向かう)
名古屋駅構内で列を作っていると、空襲。退避せよと飛ばれたが何処に退避すべきかに迷う。やがて中央線は時間前に発車すると連呼する。列車は暗闇の中を発車。5つ目の駅で退避する。3時間退避して空襲が解除され、ようやく出発する。
→空襲を避けるためには定刻前に列車を発車させることもあった。車内で出会った人々についても書いている。その一人について「松本から軽井沢に行くといって乗り込んだ2人の子供連れの夫人の飾らない美しさと親しみの多い態度も忘れられない」と記す。

8月2日
6時40分で(軽井沢から上野に向けて)出発した。汽車が混んで2等車に入る。山本実彦氏(改造社社長)に会う。前夜川崎や八王子に空襲のあったこと、(B29の編隊)を気にしていらだっていた。痩せられた。大東亜省の顧問会議が12時にあるとか、それに出席するのに、列車の延着するのを恐れていた。顧問になったことが得意らしい。こんな人が本物の官僚になるのであろう。赤羽で下車。
→終戦直前も与えられた職を喜び、軽井沢からその日の会議に向かう山本だが、戦後は公職追放となる。

8月4日
4時起床。5時5分前に出発。白米のご馳走で恐縮。岡村氏と明子さんが駅まで送ってくれた。トマトを沢山お土産にいただいた。
汽車は混んで、次の8時半にしようかとホームで迷っていたが、一刻も早く東京で出た方がよいちて、駅員が世話をして窓から入れてくれた。みな窓から出入りしたが、腰かけている人々は自分さえよけれっばという考えからか、窓から入るものを入れまいとして大変である。もう道義は地を払った。列車の中はうだるように熱い。
軽井沢行きの5両が切られて、1両しか連結しない。軽井沢に乗り捨てられた者がおびただしい。
→早く東京を出ようと6時半の汽車に乗った。終戦に向けて全国的に列車は年々減ったようだが、次の8時半の列車も残っていた。11時59分に軽井沢着だ。
先に乗った人が後から来る人を乗せまいとするとは人間の悲しい性か。上野から6両で来た列車は、5両が軽井沢止まりで1両のみが先に向かた。

8月8日
新井へ出たが、これも暑かった。電車をミスして、1時半の電車で松本へ出たが、運よく下り列車が遅延したのでやっと間に合った。
2人とも背負った荷物は重かった。大麦5升、白米三升、粉二貫、ジャガイモ一貫、南瓜3ケ、なす2~30.トマト10ケ、卵60ケ。280円支払った。篠ノ井でみんな林檎を持って乗り込む。林檎を欲しいと思う。夕7時半に着く列車で帰った。
→買い出しでまず長野駅の先の現在の中野市新井に向かい、次いで松本に出てそれぞれ買い出しをしたということか?

8月13日
昨夜遅く神谷啓三氏来たる。5時着の汽車が空襲のために遅れたのだ。日本がソ連を通じて英米に和を求めているーーーという噂が真実で、この17,8日ころには発表になるらしいと。
3時の汽車で帰京の予定が駅に7時ころまでおって、列車不通なれば再び戻られた。小山大人、小諸よりトラックで帰られた。物情騒然たり。
→終戦3日前も遅れはあったが信越線は動いていた。また識者の耳には終戦の情報が届いている。
神谷氏はこの時期に軽井沢に一泊して東京に戻ろうとしたが、2日前は不通であった。

8月14日
小諸なる友野さんを訪ねるのだが、切符を入手すること困難なり。
6時半に(駅に)至りて8時に漸く切符を買う。8時半の下りに乗るを待ちたるが、8時10分の上り(上野行き)で小林ひでさんの入営するのを序に(先に)見送る。
→終戦前日は信越線は動いている。

8月20日
沓掛の駅で永田医学博士に会う。土曜日(8月18日)に来て帰京するとのこと。永田さんもトラックで荷を運んだが、もっと山の中へ行きたいと。その慌て方、おぞましい限り。
→終戦直後に軽井沢と行き来できる永田博士とは誰であろう?

9月6日
9月9日に母の10年祭(神道の追悼儀式)を沼津で行う決意をしたが、乗車券を手に入れるのが問題である。前日申告というが、夜の2時ころから行く(並ぶ)という。10時に受け付けるのに困ったことだ。
9時半ごろ思いついて行ってみたが10時10分だった。すでに受け付けていたが、駅長は休みで助役である。助役はみんな苦手らしかったし、「長野や上田は林檎の買い出しだろう」とてほとんど受け付けない始末。
私は勿論最後であったが、文句なし受け付けてくれた。7日に買って8日に行くことに決す。
→名士であったからか、芹沢は切符の予約が出来た。

9月8日
6時半の汽車で(東京を経由して)沼津へ発つ。霧の立つ思わしからぬ天気。汽車は混んだ。

11月2日
東京行きの切符があるので、10時発で東京へ出る。汽車は高崎から腰を掛けられた。

<1946年>
1月9日
トラックで軽井沢へ出て12時20分の軽井沢始発の列車で家族とも上京。万里子は明日トラックで来ることにして小山さん(宅)に残る。

 

<マッカーサー夫人>

 

2022年2月26日の朝日新聞の土曜版に興味深い記述があった。
列車に乗らないマッカーサー
1922年に製造され、GHQに接収された10号御料車。この車両が「オクタゴニアン(Octagonian)」と呼ばれる第8軍司令官専用列車となり、アイケルバーガー司令官夫妻やマッカーサー夫人が軽井沢や日光に行く際に用いられた。(歴史のダイヤグラム 原武史より)

マッカーサー自身は軽井沢を訪問したことはない。それどころか第一生命ビルの彼の事務所から出ることすらほとんどなかった。

調べると1946年の7月22日 - 10月14日(下りは10月8日まで):アメリカ軍の休暇列車として、上野 - 田口(現在の妙高高原)間に下り火曜日・上り月曜日発で、「Rest Camptrain」(1303・1304列車)を運行とある。(ウィキペディア)

一般将兵とその家族はこちらを利用したのであろう。

 

芹沢の『パリで会った日本人』を元にした『浅田スマ子・戦後初の”サロン”をパリで開いた女性』はこちら

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拙著

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