自著『日本郵船 欧州航路を利用した邦人の記録』がその本家本元、
日本郵船歴史博物館のミュージアムショップで販売していただけることになった。
同博物館を訪問される方は、ぜひ手に取ってご覧ください。
合わせて新情報を一件追加します。
<デッキ・パッセンジャー>
渋沢栄一の孫である渋沢敬三の妻登喜子は、1922年春にロンドンに向かう。
ちょうどその頃外交官になって間もない兄が最初の赴任地のパリへ向かう事になったので、前々から夫の後を追ってイギリスへ行く予定であった登喜子は、兄にマルセイユまで一緒に行ってもらう事を頼み、取り急ぎ日本郵船に船室の予約をする。4月末に神戸を出航の筥崎丸に、プロムナードデッキの個室が二つ残っていて、その一つを予約する。
この外交官の兄は木内良胤、筆者の『第二次世界大戦下の欧州邦人(イタリア編)』に収録した『戦時下のイタリア、日本大使館のいちばん長い日』の中で紹介している。開戦直前まで欧州航路で活躍する筥崎丸は、登喜子が乗船する1年前の1921年に竣工したばかりだ。
また登喜子は
「この頃、日本郵船の欧州航路と言えば華やかさは随一、誰でも一度は経験してみたいと思う旅のひとつであった」と書いている。この欧州航路への憧れ、その華やかさがまさに拙著のテーマの一つだ。
さてこの本で筆者は新しい事実を知る。それが「デッキ・パッセンジャー」の存在だ。該当部分を拾ってみる。
「どこの港であったか、船が接岸するとまもなく、老若男女十数人の一団が賑やかに船橋を登ってきた。黒い髪、褐色の肌、彫りの深い顔立ち、どこの国の人かはわからなかったが、これから次の港に着くまでの数日をこの船の甲板の一部を借りて旅する人々、デッキ・パッセンジャーと呼ばれる人たちであった。
雨の日も風の日も、またどんなに船が揺れるひどい日でも、甲板のこの一隅だけが彼らに許された居場所なのだそうである。(中略)派手な色合いのキャンバスの様な布を張り渡したのは、雨露を凌ぐ屋根代わりらしく、簡単な炊事もそこでするようであった。水だけは本船から貰い、時折スパイスの利いたおいしそうな料理の匂いが甲板まで漂ってくることがあった」
デッキパッセンジャーについて少し調べてみたすると
画家児島虎次郎の作品に「デッキ・パッセンジャー」があり、大原美術館のサイトで見ることが出来る。こちら。
1921年の作品なので登喜子がロンドンに向かった前年だ。カラフルな女性の衣装はインドの民族衣装サリーの様だ。
また『工芸ニュース』1933年3月号に「國井所長工藝行脚 第3信」が載っていて、そこには
「『デッキ・パッセンジャー』にシンガポールその他に出稼ぎしてて帰国した印度人の家族たちがいた」
と1933年頃までデッキ・パッセンジャーの存在が確認できる。
登喜子はどこの港か覚えていないと書くが、やはり彼らはインド人で、乗船地はシンガポールであったと思われる。
また以前、ナチスを逃れてフランスからポルトガルまで箱根丸と筥崎丸に乗船したユダヤ人を紹介したが、彼らもデッキ・パッセンジャーだったのであろうか?
既刊
『心の糧(戦時下の軽井沢)』はこちら
拙著『日本郵船 欧州航路を利用した邦人の記録』はこちら

