戦時下、山手168番に居住したヤコブ・フリッツ・ケルンはすでに紹介したが、彼はスイス公使館の利益代表横浜事務所に勤務した。
利益代表とは「戦争等の理由により断交状態となった国家間において、大使館の保管や居留民の保護等を行う中立国のこと」(ウィキエディア)である。第二次世界大戦中、スイスはアメリカ、イギリスを筆頭に多くの交戦国の日本国内での利益代表国であった。今回スイスの外交文書から、利益代表横浜事務所の誕生から閉鎖までの経緯を知ることが出来た。


1941年12月8日の太平洋戦争勃発後、横浜在住スイス人はしばらくの間、東京のスイス公使館との連絡に苦労していた。外国人は都市間の移動すらままならなくなる。そこで公使館では42年3月初めに横浜に領事館の設置を決めた。そして政治部はその要求を日本側に出し、ヤコブ・フリッツ・ケルン(横浜在住ビジネスマン)を領事に任命した。

しかし日本側は同意しなかった。外務省の回答は現状日本国内では、新たな領事館の設置を認めないとの事であった。同時にケルンを横浜におけるスイス公使館の「代表」として任命することを認めた。彼は特に敵国の利益代表として勤務する。

間もなく横浜の事務所には次のスイス人が勤務する。

Jakob Kern

August Kengelbacher

Herbert Schoene

Frederic Schoene

東京も含めると「利益代表」として連合国の資産の管理に当たるのは24名となる。

 

43年、A.ラベッタ嬢が横浜事務所に採用される。

彼女の兄弟 エミール・ラベッタとその一家についてはすでに紹介した。

 

44年夏、ケルンは山下町6番、アメリカ領事館内へ移り住む。このアメリカの資産の管理をするためである。

(下はその跡地のホテルモントレ横浜のロビーにあったアメリカ領事館のメモリアル銘版)

 

44年末、事務所には一人のスイス人(ケルン)と一人の日本人助手が勤めるのみだ。

(外国人の多くが横浜を去り)以前に比べて業務は断然と減ったので、当然の対応であるとスイスの報告書は書いている。

 

45年7月31日、横浜領事事務所の閉鎖。ケルンが辞職する。終戦の2週間前くらいまで、横浜の事務所は活動いていたことになる。

その後のケルンの足取りはつかめない。

 

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