<習慣>
 
仕草の習慣として「ローゼマリーが自分で“チュッ”と舌を鳴らすのは接吻の音らしい」と書く。キスの擬声語が日本にはまだなかったのであろうか? (上 145ページ)
 
一方母親ヘルダは発する。
「シュトルツ夫人は眉をしかめてチュッ、チュッと舌打ちしながら“あなたの心配、私わかります。”」 (中 70ページ)
「シュトルツ夫人、例のチュッ、チュッと、しきりに舌を鳴らしていた。」(中 80ページ)
 
同じチュッの音で夫人の舌打ちの音というのは、具体的イメージが湧かない。筆者の知る限りでは、ドイツ特有とも思えない。夫人固有の癖であろうか?
 
<フリーデル・ヘニングからの手紙、戦時日独往来>
 
ヘニング夫人の娘フリーデルが、今度父に伴われてベルリンに行くことになったと言って、ある日夫人が訪ねて来たのは、(1940年)十一月の中旬であった。
 
「夫人は戦争中のヨーロッパへ娘を旅立たせることは躊躇したのであるけれども、娘は舞踏研究のためどうしても行くと云って聴かないし、夫もそんなに行きたがるなら連れて行こうと云いだした。
幸い他にも同行者が得られたので、道中の心配はないであろうと思っている。」(下 387ページ)
 
と独ソ戦が始まるわずか7ヶ月前にシベリア鉄道を経由してドイツに向かう。父と娘二人である。国際情勢を考えれば、日本に残るヘニング夫人とは開戦による生き別れ覚悟の渡欧である。しかし父は出張ですぐ戻る予定なのか、そして実際に戻れたのかは、小説からはよくは読みとれない。
 
そのヘニング嬢は分かりやすい英語で幸子に手紙を送ってくる。
「1941年2月2日 ベルリンにて
私達は、長いけれども愉快であった航海の後、正月五日にドイツに着きました。ロシア国境に於ける検疫禁足期間は勿論あまり愉快なものではありませんでしたが、それでもロシア人が彼等の最善を尽くしていたことは確かだと云えます。」(下 417ページ)
 
この手紙に関しても、細江氏の注釈が秀逸である。よくここまで調べたものだ。
「航海; 手紙にVoyage(旅行)とあったのを谷崎が誤訳したのであろう。ヘニング嬢は満州国から陸路シベリア鉄道を経由してベルリンに到着したと考えられる。この頃、ドイツは海軍力にまさるイギリスと戦争をしており、海路は危険であった。」
 
あえて筆者の注釈を付け足すと以下のようだ。ドイツ人フリーダがわかりやすい英文で書いた手紙にVoyageというフランス語が元の単語を用いるとは考えにくい。またVoyageは旅行と言うよりは、やはり船旅、航海の意味が強い。

よってここは谷崎がシュトルツ家、カタリナ同様、ヘニング嬢も船で本国に向かったという先入観から普通の「旅、旅行」という英単語を航海と誤訳したと考えるべきではないか。
 
また「海路は危険であった」という部分であるが、ドイツ人にとってはこの時シベリア経由は、唯一の日欧間を結ぶ交通手段であった。日本は英国と戦闘状態に入っていなかったので、日本人はまだアメリカから大西洋を船で欧州に向かうことは可能であったが、ドイツ人は出来なかった。
次も細江氏の注釈である。

「検疫禁足期間;当時、満州でペストが流行していたため、罹患者があるかどうかを調べるために、しばらく足止めにされた。」この頃のシベリア鉄道のことは筆者もいろいろ調べているが、この事実は知らなかった。
 
小説の手紙に戻る。
「私達は六日間の(禁足)期間が過ぎて、私達は列車のある所へ案内されました。父と私は私達だけの大きな新しい二人掛けの席に掛けましたが、次の席には日本訪問から帰朝の途にあるヒットラーユーゲントの少年達が乗っていました。」
 
次の注解も脱帽である。
「ヒットラーユーゲント: 昭和13年にも訪日しているが、ここはヒットラーユーゲントの指導者ハインリヒ・ユルゲンス以下六名が、紀元2600年式典に参列するために日本を訪問した帰途。」
それに関連し朝日新聞に次のような記事がある。

1940年11月2日
「独青年団も着京 盛り沢山の滞京日程
10月5日 独の交歓代表出発
今秋日独両国で青少年運動指導者を相互派遣する事業につき、日本側小山団長以下6名は9月末出発の予定がシベリア通過の旅券の都合により当分延期となっているが、一方ドイツ側は左の6氏が4日ベルリンを出発、11日満州里着、11月1日入京する旨(10月)4日、文部省に連絡があった。」
 
この頃民間の日本人がシベリア鉄道で渡欧することは、ソ連がビザをなかなか発給しないため、ほぼ不可能であった。日本人が拒否され、ドイツ人がビザを発給された記事を見ると、当時ソ連はまもなく攻め込まれるドイツとの友好を、日本以上に重要と考えていた節がある。
 
同じタイミングでシュトルツ夫人は
「写真をお送りすることが許されませんのは、何としても残念でございます。」と書く。シベリア鉄道経由の手紙に写真の同封が禁じられていたとは、当時の緊迫した情勢を反映して興味深い。日本からの手紙はアメリカ経由で送られたので、写真も同封できたのかもしれない。
 
<日付の矛盾>
 
ここからは少し目先を変える。詳細に読んでいくと小さな疑問点に気づく。筆者が熟読した副産物として紹介する。
 
まずはシュトルツ親子が1938年、ドイツに帰国するまでのまでの日付である。該当文章を挙げていく。
「8月19日にはシュトルツ家で子供たちのために名残のお茶の会が催される。ドイツの少年少女達が集まった中に、唯一の日本人として悦子も呼ばれた。」(中 129ページ)
「その翌日の午後、ペータアは一人で蒔岡家に挨拶に来る。」その翌日であるから20日である。
「自分は明日の朝、パパと一緒に三宮から横浜に向けて立つ。」ここも20日の会話であるから、シュトルツ親子が三宮を発つのは、21日朝のはずである。しかし続いて
「悦子は22日の朝、雪子に連れられてシュトルツ父子を三宮まで見送ったが」と21日が飛んでしまっている。
 
<東京見物は可能であった?>
 
「エツコさんはいつ東京へ行きますか、来られたら船まで来てくれませんか、24日の夜の出帆ですから」(中 130ページ)といわれて雪子と悦子は

「(明後日)24日の午前7時の”富士”で横浜に午後3時前に着くから、3時ちょっと過ぎには突堤に着ける」と見送りに横浜へ行く。
「夜の7時の出帆ということだったので、まだ4時間足らずあったので東京まで来ないであろうか、電車の往復が1時間と見て、3時間ほど余裕がある訳だから自動車で一回りすれば丸の内辺を見物することぐらいは出来る。」
 
きつい日程であることは谷崎も認識していて、
「シュトルツ氏は大丈夫ですか、大丈夫ですかと、2,3度念を押してから承知した。」と言わせている。
それでも当時の交通事情を考えると、やや無理を感じる。純粋な時間的には成り立っても、実際に当時の列車の時刻表に照らしてみてみると、難しいのではなかろうか。

しかし冒頭紹介したように「東京へ来させるにしても三等寝台はその頃なくなっていた筈ではではないか」まで確認したという谷崎であるからそこは確認済み、しっかり成り立つのかもしれない。
その後判明したことだが、港から出る船に合わせて東京駅を出る港へ直通の臨時列車があった。
 
1928年時点で東京発は午後1時5分、横浜港駅1時56分で、帰りは3時25分発であった。直通ですら51分かかるので、やはり「電車の往復で最低でも2時間」は見ないといけないはずだ。
(2019年1月28日追加)
 
<表記揺れ>
 
細部に渡って気の配られた谷崎の文章であるが、それでも気になるところがあった。戦前”二十”は”廿”という漢字もあったが、谷崎はあまり厳密に使い分けていないようだ。
 
シュトルツ一父子の見送りに関し
「二十七日の朝の”かもめ”で立つことにしていた幸子は」 (中 136ページ)
「考えて見ると、廿七日に立ってから今日で十一日になる訳であるが」(中 193ページ)と27日が二通りに表されている。
 
また一文の中に両方を用いている箇所がある。
「母の祥月命日は九月二十五日のところを一日繰り上げて、廿四日の日曜日に善慶寺で法事をすることにした。」(下 76ページ)ここは意識して重複を避けているのであろうか?
 
余談ながらワープロソフトであるワードには、こうした表記揺れをチェックする機能が付いているが、この二十と廿、二つの揺れはチェックしない。
 
<ドイツまでの旅程>
 
ヒルダは先にも書いたように1938年9月30日付けで、マニラから幸子に手紙を書く
「彼らは無事安全にハンブルクへ着いたということで、先日私は電報を受け取りました。」(中 221ページ)
 
別の箇所で「アメリカを廻ってドイツへ着くのは9月の上旬になると思うが、ドイツではハンブルクに住む筈。」(中 129ページ)とペータアは言うが、8月24日に横浜港を出て、太平洋からアメリカ大陸を汽車で横断し、大西洋を渡って9月上旬にハンブルクは、どう考えても無理である。
よってヒルダの手紙のように9月下旬に着いたと言うのが正しいところであろう。 
 
<妹の子供の数>
 
シュトルツ夫人はマニラに寄って「(ドイツに戻っている)妹の子供3人も連れて引き揚げる。」(中 128ページ)とマニラ経由で帰る理由を説明する。そして
「私達は当地此処(マニラ)ではとても大家内(家族)です。此処には子供が八人おりまして(中 222ページ)」とマニラから英文で書く。
 
しかしシュトルツ夫人は自分の子供を2人連れているので、総勢5人のはずである。これが8人というのは、妹にはさらに3人、今回帰国しない子供がいるのか、または他の子供がいるのかなどの説明がないと不明である。
 
この夫人の英文の手紙は、母国語で書かれてていない故か、他にも分かりにくい部分がある。
「彼ら(父とペータア)は今私の妹の所に寄寓しておりますが、妹には3人の子供がありますので、ペータアがその四人目の子になるでしょう。」(中222ページ)

ここは実際は
「自分がこれから妹の子供3人を連れ帰ると、ベルリンの妹の家はすでにいるペータアと合わせて、4人の子供となるでしょう。」と夫人は言いたかったはずである。
 
<終わりに>
                                                                 こうして見てくると、谷崎がいかにドイツ的なもに傾倒してきたか、また小説とは言え、その中で書かれた手紙、ドイツ人の名前など、自分の体験に基づいたものが多く、架空のものが少ないと分かる。それがこの小説にぐっと現実感を与えているのではないか。
 
小説のシュトルツ家は実際はシュルンボン家で、実在するということはこれまでも良く知られてきた。しかしシュルムボム家をここまで調べたのは初めてのこと、と密かに自負している。その子供に優しい父ペーター・シュルムボムも時代の潮流、ナチスに翻弄されたことが分かった。
 
また”小さな発見”がいくつかあった。一方ではシュトルツ家がドイツに戻った先の住所など、「そこまで調べて何の意味があるのか?」と思われる読者も多いであろう。そこは筆者の趣味の領域かもしれないが、ある名前、住所を谷崎が用いたことには、それぞれ何か意味があるはずだと信じる。
 
谷崎が作品かけた時間の何十分の一、いや何百分の一で、門外漢のドイツファンが調べ、書き上げた本編である。全国の『細雪』ファンのみなさま、気づいたこと、筆者が勘違いしていることなど指摘いただけると幸いです。
以上(2017年2月17日)
 
掲載ページは新潮文庫の版の次の版を元にしてあります。
上巻 平成十八年十月十日 百五刷
中巻 平成二十三年十二月二十日 九十六刷
下巻 平成二十三年十二月二十日 九十七刷
 

メインのホームページ「日瑞関係のページ」はこちら
私の書籍のご案内はこちら

『第二次世界大戦下の滞日外国人(ドイツ人・スイス人の軽井沢・箱根・神戸)』

こちら