ヘルマン・ドンカーカーチスは、1852年に長崎出島の最後のオランダ商館長として赴任し、1855年、最初の日蘭の貿易条約に調印した、ヤン・ヘンドリック・ドンケルクルチウス(Jan Hendrik Donker Curtius)の孫である。次男で同名のヤン・ヘンドリック(ヘルマンの父)の妻は日本人(Koyama Okin)である。
ヘルマンの妻はシズ・ドンカーカーチスという名前なので、彼女も日本人であろう。エヴァミルクの輸入販売会社を経営していた。子供はヘンドリック(19)、ポドワイン(17)、ドロシア(16)の3人(いずれも終戦時の年齢)であった。
1941年12月8日、日本が米英に参戦すると、オランダとも交戦状態となりヘルマンだけが抑留される。(『戦時下横浜外国人の受難』他より)
1942年7月、戦争のため敵国人と見なされたヨーロッパ人を本国に送り返す「日英交換船」が日本を出航し、この交換船「龍田丸」に乗船して、41名のオランダ人が帰国した。
しかしながら、資産や日本人家族と離れることができなかったオランダ人の中には、この交換船に乗らず残留した人もた。ヘルマン・ドンカーカーチスもその1人であった。
ヘルマンの妻シズは国籍はオランダであっても、元日本人という事で、抑留は免れたのであろうか?
1943年8月、ヘルマンが病気のため抑留を解除され、横浜市中区の自宅に帰された。『戦時下横浜外国人の受難』では、戻った住所は不明となっている。しかし外事月報によると1944年4月27日、中国人の料理人温○臣が本牧町2丁目のドンカーカーチス家に移り住んでいる。
よってこれがドンカーカーチス家の住所であることが分かる。ヘルマン一家5人はその本牧の住まいで終戦を迎えるが、この時横浜在住のオランダ人は彼らだけであった。
