ロシア革命後に国外に脱出した白系ロシア人だが、1943年時点で山手だけでも9家族が暮らしていた。その内のラブロフ一家はウラル出身の白系ロシア人。
 
父サベリーは第一次大戦、ロシア革命でも白軍として戦い、ロシア難民が集まった上海、朝鮮を経てカラフト、秋田へと移り住み、妻ダリアと西洋衣料の商店を営んだ。
 
その後一家は横浜に移り住む。学齢期に達した子供たちにとって「よい外国人学校がある日本最大の港町」であった事、それ以上に、ここに正教会の礼拝施設があったことが理由であった。
 
子供たちのうちコンスタンチンは秋田、ヴィクターとアントニナは樺太生まれ、末弟のジョージは1941年に横浜で生まれた。
 
一家はフランス領事の地所(山手189番)に隣接する184番の2階建ての西洋風の家に住んだが、日米開戦後は無国籍人として、様々な疑惑や圧迫を受けた。戦時中白系ロシア人向けの数少ない仕事としては、映画のエキストラがあった。顔だちが似ていたので、敵国米英人を演じる役であった。
 
1945年5月29日の横浜大空襲では、1943年12月にセントジョゼフを卒業したコンスタンチンが犠牲となった。一家は立ち退き命令で、同じ中区の鷲山に移っている。そこで犠牲になったのであろう。軽井沢、箱根などに疎開していれば、コンスタンチンの運命は変わっていたはずだ。
(『セントジョゼフ学院と横浜の外国人社会』大西比呂志を参考)
 
山手184番は元町・中華街の駅に近く、今は山手迎賓館があるあたり。
 
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