ミワ・デュアの結婚前の名前は湯沢三和で英国人ウィリアム・デュアと結婚する。1918年、東京でシディンハムが生まれ、1928年に弟エドワードが生まれる。
ウィリアムの父イーシド・デュアはロンドン生まれの英国人。1885年上海で恒川やすと結婚。その後日本郵船会社の代理人の職を得て来日した。
ウィリアム一家は1938年、戸塚区小雀町の丘の上に、英国風の家を建てて家族で移転する。日本が米英に宣戦する1941年12月8日、夫ウィリアムは、いつも通りに出勤した東京銀座の事務所で、息子のシデンハムは登校した医科大学で、それぞれ特別高等警察により連行された。
そして元日本人の妻ミワとまだ抑留年齢に達しないエドワードは戸塚の家に留まることが出来た。父と子は1942年6月より1年間、根岸の神奈川第一抑留所に収容され、1943年6月より足柄村内山のカトリック修道会マリア会の山荘に移転させられる。以降、ミワとエドワードは面会日には早起きして足柄まで出向く。
シディンハムは一度自宅に寄ることを許される。彼の残した日記からその経緯が分かる。
「1944年12月30日晴天。特別面会日。母は来られなかったがエディ(エドワードのこと)が来た。別に異常なし。(重病の)カーデュウが明日(収容所を)出られるように決まった。ジョージ・ビーティと僕が送り届けることになった。
12月30日
鉄道をまたぐ橋の上でカーデュウ夫人と落ち合った。彼女は昨晩山北の旅館に泊まったのだ。横浜駅では幸運にもタクシーが拾え、ライジングサン社の社宅に近いカーデュウの自宅へ送り届けた。
鉄道をまたぐ橋の上でカーデュウ夫人と落ち合った。彼女は昨晩山北の旅館に泊まったのだ。横浜駅では幸運にもタクシーが拾え、ライジングサン社の社宅に近いカーデュウの自宅へ送り届けた。
(内山より同行の)黒沢巡査は、親切にも僕らは家に帰ってもいいと言ってくれた。
ゴメス夫人が是非家に寄ってくれというので行き、酒をご馳走になった。
エディと母、実に嬉しそうだった。勿論僕もだが。母は目に涙をため、僕も目頭が異常にくすぐったくなった。」
僕たちの新居はこぎれいだが荷物でいっぱいだった。母とエディは勿論びっくりした。”あんか”を囲んで3人で2時間ほどおしゃべりをした。
エディと母、実に嬉しそうだった。勿論僕もだが。母は目に涙をため、僕も目頭が異常にくすぐったくなった。」
戸塚のデュア家の住宅は、1942年夏頃、要塞地帯であるという理由で軍に接収された。そのため母とエディは一時打越25のゴメス家に間借りをし、その後打越の別の借家に移っていった。
