ヘルベルト・ツアヘルトとズザンナ夫妻が松本高校に赴任したのは1933年であった。ズザンナの母は日本人であった。
休日は、一家でドイツクラブ(山手5番 Deutsches Haus Yokohama)によく出かけました。みんな子供連れで来るので、子供は子供同士で遊び、男性たちはビールを片手に談笑し、女性たちもレモネードを飲みながらおしゃべりに花を咲かせるのでした。
とても声をかけられる状態ではなく、微笑みが凍りついていくのが自分でもよく分かりました。
その後軽井沢(桜の沢1345番地)に疎開するが、ヘルベルトは仕事で東京と往復する。終戦は軽井沢で迎えるが、この日独文化協会所長という経歴ゆえに1947年、本国へ送還となる。(『ズザンナさんの架けた橋』より)
1941年、ヘルベルトが東京の日独文化協会理事に任命された際、横浜根岸に居を構える。(中区中尾台34)
横浜での生活について、ズサンナさんは次のように語っている。
そのころ横浜には、ドイツ人は200人以上いたと思います。ヘルベルトは朝早く家を出て、東京駅まで電車で通っていたが、近くに住むドイツ人と誘い合わせて車で行くこともありました。
休日は、一家でドイツクラブ(山手5番 Deutsches Haus Yokohama)によく出かけました。みんな子供連れで来るので、子供は子供同士で遊び、男性たちはビールを片手に談笑し、女性たちもレモネードを飲みながらおしゃべりに花を咲かせるのでした。
でも慣れて来ると住みにくさも感じ始めました。横浜にはアメリカ人や英国人、フランス人、スエーデン人など、いろんな国の人がいました。中には戦争が始まる前に夏の軽井沢で知り合った方もいたのですが、敵国となった今、道ですれ違っても、お互いに顔をそむけて気が付かないふりをするのです。
とても声をかけられる状態ではなく、微笑みが凍りついていくのが自分でもよく分かりました。
(1942年11月30日)横浜港に停泊中のドイツの軍艦が爆破された時には、3か月ほど、横浜のドイツ人家庭が水兵さんたちを預かった事もあります。(自分の)家は部屋数が多かったので、3人ほどお泊めしました。庭で子供たちとよく遊んでくれました。
日独文化協会は1927年に設立され1945年まで続く両国の親善社交団体で、現在の日独協会の前身である。この日独の親善団体も戦時中は、必然的に時流に乗った動きをしたためか、GHQによって全体主義的なものとみなされたようだ。
