<代償なき四十四年>
先にも述べたごとく日本にはソ連側に提供する代償がないため、一九四四年に入ると査証交渉を佐藤大使は主として、日ソ双方に駐在の外交官のソ連入国査証に絞った。通過査証は欧州入りするためのもので、ソ連との往来は入国査証である。
同年五月二十三日佐藤大使は重光外相に書き送る。「ソ連は邦人の通過査証問題にはなはだ熱意が感じられない。しかし香港にいる三人のソ連人に対し、帰国希望が出されたのは交渉をする良いチャンスである。ただしルーマニア、フィンランド等ソ連近接諸国赴任予定の日本公使、各地の陸海軍軍人等の査証解決は、何れも不可能であろう」と交渉を前に釘をさした。
一件だけ例外があった。欧州で査証を待つ邦人のうち、堀切善衛兵前イタリア大使は何としても帰したいと、日本は考えていた。後任の日高大使はすでに着任していた。そこで三月十一日、重光外相がマリク駐日ソ連大使と会談した際、直々に堀切大使の査証を依頼した。
その甲斐があって三月十八日、栗原トルコ大使はソ連大使館より、堀切大使の通過査証許可の知らせを受けた。その直後、一人では大変との周囲の計らいで、従者として柳井庄五郎もビザを得ることが出来た。

五月下旬、国境の満州里に着いた堀切大使は語る。「ドイツの食糧事情はまだまだ改善の余地がある。たとえばフランスの国民は農業に力を入れていない」
上京し六月十六日には外務省で記者会見を行う。ただし新聞に発表されたその内容は紋切りなものであった。
上京し六月十六日には外務省で記者会見を行う。ただし新聞に発表されたその内容は紋切りなものであった。
また依然未解決問題として加賀伝書使の件があった。加賀は一九四二年の五月、ソ連の通過査証を最優先で受けている。しかし先述のように病に倒れ,スイスで療養生活を送っていた。四十四年には加賀の健康は回復した。そして二年前に入手した通過査証で,帰国しようとした。するとソ連側は「加賀は外交行李を運ぶのか?単独にて帰国出来るのか?」などらりくらりの対応であった。
加賀はこの時帰国したのか、それとも敗戦後,トルコ駐在の外交官と共にハイファ港から引き揚げ船に乗り込んだのかは,確認が取れていないが、筆者は後者であろうと考えている。
日本側が交渉でお手上げになっていた六月一日、満州国の首都新京の梅津大使から重光宛てに電信が届く。
「ソ満間で交渉がまとまり、羅駐伊公使他十二名(家族含まず)に査証が下りた」
「ソ満間で交渉がまとまり、羅駐伊公使他十二名(家族含まず)に査証が下りた」
さらにそこには五名の日本人外交官、満鉄職員が含まれていた。これを知った大島大使から重光大使に宛てて抗議の電報が届く。
「今後は日満一体共同歩調にてソ連側と交渉されたし。日本側関係者の査証取付けが満州国関係者に比べて著しく渋滞していることはすこぶる面白からず。また在留邦人に対しても大使館の威信が失墜である。集団帰朝をする必要は益々増大している折、一層のプッシュをお願いする」ドイツの邦人の帰国が殆ど行われていなかっただけに、大島の怒りも大きかった。
これに対し重光は
「満州国は独立国の立場上、日満一体の交渉は出来ない。ソ連は交渉に熱意を示さないが、粘り強く交渉するのみ」と答えた。また佐藤大使は行き詰まりを打開するために、在支のソ連資産を交渉に持ち出すことを提案した。
「満州国は独立国の立場上、日満一体の交渉は出来ない。ソ連は交渉に熱意を示さないが、粘り強く交渉するのみ」と答えた。また佐藤大使は行き詰まりを打開するために、在支のソ連資産を交渉に持ち出すことを提案した。
査証の下りた満州国外交官がトルコを発ったのは九月四日であった。しかし三代晁雄一家四人はそのまま残った。女中浜田チヨの査証がまだ下りなかったからである。浜田の査証は十月二十三日ようやく下りた。(「満州国参事官 三城晁雄のアルバム」こちらを参照ください。 )
満州国経済部に在籍し三年半ぶりにドイツから帰満した根澤二郎は、上京する。そして読売新聞に対して近況を語った。あまり語れることもないためか「為政者への絶対的信頼」といった事位しか新聞には載っていない。
<集団帰朝>
先に大島が書いた集団帰朝については、さる六月七日連合軍がフランスのノルマンディーに上陸して本格的な反攻が始まると共に、再び話題に上ってくる。大島大使は六月三日、昨年に続き重光外相に書き送っている。
「在独官民の多数帰朝又は交替は、何れの点よりするも望ましきこと客年往電三○六号を以って電稟したる通りにして、右に対し当時同貴電第三○○号を以って今後適当なる機会を捉え、シベリア経由帰朝方措置すべき趣旨の御電報に接し爾来、当方においても鶴首待ち居る次第なりしが、過般のソ連邦と漁業条約乃至我が利権対ソ還付交渉は、正に好機会なるべに付、必ずや対ソ本件申入れありたる事と存す」
これに対し重光外相は六月七日
「従来は何れもソ連船員三、四十名程度の査証請求ありたるが、現在は僅か二、三名ありたるに過ぎず」と否定的に答えている。
「従来は何れもソ連船員三、四十名程度の査証請求ありたるが、現在は僅か二、三名ありたるに過ぎず」と否定的に答えている。
さらに六月二十日には、在留邦人の世話役である徳永太郎ベルリン総領事より重光外相に訴えが入る。
「在欧邦人の集団帰朝の件に関しては、既に在独大使より稟請の通りこれが実現の必要は申すまでもなく、当館に於いても今後も在留民保護の見地より是非とも実現を切望する次第にして、ソ連邦との交渉に際しては、従来の比率主義に依らず、政治的解決を御配慮ありたし」
「在欧邦人の集団帰朝の件に関しては、既に在独大使より稟請の通りこれが実現の必要は申すまでもなく、当館に於いても今後も在留民保護の見地より是非とも実現を切望する次第にして、ソ連邦との交渉に際しては、従来の比率主義に依らず、政治的解決を御配慮ありたし」
ここで徳永らのいう集団帰国とは、ドイツ崩壊による集団引き揚げと考えるのが自然であろう。「ナチスかぶれ」と戦後非難された大島は、ドイツ崩壊間近までその不敗を信じていたと広くいわれている。しかし先の電文にあるように大島は敗戦一年前の六月の時点でドイツの軍事的勝利はない、と判断していたと考えてよさそうである。
<敗戦による引揚げ>
四十四年も下半期に入ると、ドイツの周辺国から崩れはじめる。七月二十日ヒトラーの暗殺計画が実行されるにおよんで、日本政府もドイツの将来に見切りを付けるようになった。
九月六日、モロトフ外相との会談を前にした佐藤大使は、討議事項を予め本国に送る。そしてその三番目は
「バルカン諸国(或はフィンランドを含めて)駐在の我が方使臣引き揚げの場合を予想し、予め蘇の協力を求め、彼の意向を探ること」とある。佐藤はすでにフィンランドなどからの、ソ連を経由した邦人引き揚げの必要性を感じていた。
「バルカン諸国(或はフィンランドを含めて)駐在の我が方使臣引き揚げの場合を予想し、予め蘇の協力を求め、彼の意向を探ること」とある。佐藤はすでにフィンランドなどからの、ソ連を経由した邦人引き揚げの必要性を感じていた。
佐藤の会見に先立つ九月四日、ドイツでは大島大使が、同じく本国からの訓令でヒトラーに会見し、独ソ和平の仲介を申し出る。
「スターリンがそのようなこと申し出を受ける訳がない。日本政府に於いては一切この問題に触れないことを多とする」とこちらも独裁者から、きっぱり断られた。
「スターリンがそのようなこと申し出を受ける訳がない。日本政府に於いては一切この問題に触れないことを多とする」とこちらも独裁者から、きっぱり断られた。
そのフィンランドは同年九月二十二日午後三時半、外務省に出頭した昌谷忠公使に対し断交を通告する。北欧の同盟国はソ連と単独に講和を結んだのである。すぐさまフィンランドの邦人は自宅軟禁となる。そして間もなく日本のフィンランド人とかれらの、シベリア鉄道を介しての交換の申し合わせが成立する。ソ連はそれに呼応し、自国の通過ビザを即座に発給した。昌谷公使一行が帰国のためソ連の軍用機でヘルシンキを飛び立ったのは、十一月二十三日のことであった。
初の欧州からの引き揚げ者を迎えたモスクワの日本大使館員は、かれらの持ち物や服装が立派な事に驚いた。着の身着のままの同胞を予想していたら、昌谷公使夫人などは毛皮の外套を羽織り、傍らには立派なシェパードを従えていた。フィンランドはまだ国力を残しての講和であり、焦土からの引き揚げではなかったからである。
初の欧州からの引き揚げ者を迎えたモスクワの日本大使館員は、かれらの持ち物や服装が立派な事に驚いた。着の身着のままの同胞を予想していたら、昌谷公使夫人などは毛皮の外套を羽織り、傍らには立派なシェパードを従えていた。フィンランドはまだ国力を残しての講和であり、焦土からの引き揚げではなかったからである。
この時ヘルシンキ大学の講師をしていた桑木努は、持ち帰れない本はフィンランド人の知人に預けて引き揚げ、戦後それらの本を再び手にすることができたという。われわれの今日理解する悲惨な引き揚げとは少し様子が違っている。
一行は大使館員の世話でモスクワ見物をし、二十六日佐藤大使らに見送られシベリア鉄道の本線に乗り込んだ。車中では車掌が常に監視し、窓のブラインドは下ろされたままであった。満州国境の満州里駅に着いたのは十二月八日の事であった。
引き揚げた昌谷公使は、間もなくおとずれる本国の終戦に際して、名前が登場する。一九四五年二月二十六日、東条陸軍大将の天機奏上の際、天皇より
「ソ連が武力的に立ち上がる事なしと思うや」と御下問があった。それに答えてかつての首相は
「ソ連が武力的に立ち上がる事なしと思うや」と御下問があった。それに答えてかつての首相は
「この点を観察せし両者、一人は一月程前にフィンランドより帰朝せし者、他の一人は、二週間ほど前にシベリア経由帰朝せし者、この両者の観察異なる。前者はソ連の人民には大体戦意はなしと観測す。(以下省略)」
昌谷はソ連を縦断して、ソ連には対日戦の意欲なしと理解したようだ。また三月末には、昌谷はかねてから懇意のバッゲスエーデン公使と会談する。そしてバッゲよりスエーデン側から米国の意向を探る事も差支えないとの提案を受けた。昌谷はさっそくこれを重光葵外相に取り次ぎ、同意を得た。しかし四月十一日東郷茂徳に外相が代わり、この話はうまく引き継がれなかった。
続いてブルガリア政府も対日断交を通告する。そして十一月十日、在留邦人対し一週間以内の国外退去を要求する。しかしすぐにはソ連の通過査証が得られなかったため、取敢えず全員がトルコに避難する。
さらにルーマニアが対日断交を通告するのは十月三十一日である。同国にいた筒井潔公使ら一行十五名は、ソビエト経由で帰国予定と朝日新聞に報道されるが、かれらは終戦後も一年以上抑留される。
第十三部以上