<阿部勝雄中将のサイン帳>
日独伊三国同盟軍事専門員の責任者阿部勝雄中将は、短いながらも毎日の行動を「5年日記」に書き残し、そして折に触れた訪問者にはサイン帳に記帳を求めた。敗戦帰国の際、多くの駐在員が後難を恐れ、こうしたものは破棄したが、阿部中将は持ち帰った。貴重な資料となり、日記は国会図書館内の憲政資料館に寄贈されている。
その阿部中将の日記の1943年10月28日に「庄司、吉川を昼食に招待する」とある。この頃吉川はイタリアのミラノのイソッタ.フラスキーニ社に通い、庄司元三と共に高速魚雷艇の導入に努めたようだ。

1944年5月 光延旺洋、明洋と庄司元三(左)と鮫島教授がピクニック。(メラーノ)
この訪問の時、吉川は阿部のサイン帳に
「ベルリンに味をたしなむ客もあり」と書いた。食べ物は元来美味しくはないと言われていたベルリンに、食の本場イタリアから来た吉川は皮肉を込めて書いたのであろう。
「ベルリンに味をたしなむ客もあり」と書いた。食べ物は元来美味しくはないと言われていたベルリンに、食の本場イタリアから来た吉川は皮肉を込めて書いたのであろう。
日本人にはやはり日本食であった。ベルリンにはまだ日本食材の備蓄があり、危険下に派遣された潜水艦も日本酒を運んだりしている。下にはこの日に食べたと思われる日本食のメニューが列挙されている。日本産海苔、味噌汁、漬物などが読める。
庄司はユーモラスにイタリアからの持参品目録として
リンゴ (但しメラーノ産、とびきり上等品 小箱ひと箱)
ホルマッジョ(チーズ)(但し盛力増進に適するもの、、、)
と書いた。
リンゴ (但しメラーノ産、とびきり上等品 小箱ひと箱)
ホルマッジョ(チーズ)(但し盛力増進に適するもの、、、)
と書いた。
リンゴにメラーノ産とあるが、この時すでにイタリアではムッソリーニが失脚し、日本は大使館をローマからベネチアに避難させ、海軍武官室は北イタリアの保養地メラーノ(ミラノではない)に設置していた。吉川と庄司もこのメラーノの海軍武官室を活動のベースとして活動していたのであろう。

欠食児童救済剤として上記の日本食を昼食で食べたのであろう。(下部は庄司の字と思われる)
<一駐独技術士官の思い出>
永盛義夫技術少佐は、伊号第29潜水艦でフランスに向かった同僚である。無事日本に戻った永盛は戦後、上記の題名で回想録を書いた。そこには吉川も登場する。
「1944年3月16日にベルリンに着いた永盛は樽谷由吉大尉に迎えられた。樽谷は航空エンジンの専門家で、吉川が日本に向かった後、その後任となり、永盛と一緒に働く事になっていた。夕食後、樽谷に自分の下宿に案内された。」
前述の下宿とは元々は吉川の下宿先であった。吉川は後から来る永盛のために家主に対し
「しばらく戦線視察に出かけて留守になるが、パリから友人の永盛が来るので、その間自分の部屋を使用させてほしい」と頼み、トランク二個を地下室に置いたまま、自分の出発まで約半月間、ホテルアドロンに移った。
「しばらく戦線視察に出かけて留守になるが、パリから友人の永盛が来るので、その間自分の部屋を使用させてほしい」と頼み、トランク二個を地下室に置いたまま、自分の出発まで約半月間、ホテルアドロンに移った。
当時潜水艦で帰国するというのは極秘事項であった。連合国軍に知られれば、沈没の確立が増大するからである。よって吉川は公私の知人はもとより、家主にも別れを告げずに、戦線視察と言ってベルリンを去った。地下室に残した2個のトランクの中は空であったが、これも戦線視察であることのカモフラージュであった。
また「海軍伯林(ベルリン)」という歌の歌詞が紹介されているが、その作詞者が吉川技術中佐と書かれている。
河辺虎四郎駐陸軍武官が作詞した「ベルリン春秋」の歌詞は、筆者も何度か目にしたが、「海軍伯林」は他に紹介された書物を筆者は目にしたことがない。
歌詞を見ると1番の終わりが、「努めは重し海軍伯林」、2番以降「迎えてさんたり海軍伯林」、「結びは固し海軍伯林」、「使命は尊し海軍伯林」としっかり韻を踏んでいる。

「海軍伯林」 4番までのうち2番まで。
また永盛の本には「Matrosenlied(水兵の歌)」というドイツ海軍でよく歌われた歌の日本語訳が紹介されているが、こちらの訳者も吉川中佐である。航空専門技術者の吉川であったが、詩、ドイツ語の素養も高いレベルで備えていたようだ。
第三部以上
