<工場見学と末松茂久陸軍少佐>
ドイツで吉川は幾度か航空機会社の工場を訪問している。日独同盟のため、ドイツ側も広く工場を見せたようだ。その場合は多くが陸軍の航空関係者と共同での行動であった。日本には空軍がなく、陸軍、海軍それぞれが航空機の開発から行っていた。日本軍の縄張り意識の典型としてしばしば指摘される事である。よってドイツへの技術者の派遣も陸海両軍からであった。
1942年11月、南ドイツのアウグスブルクにあるメッサーシュミット社を訪問した際の記念写真にも陸軍駐在者(薄い色の制服)と海軍駐在者(黒の制服)が一緒に写っている。

上の写真には右から二人目、末松茂久陸軍少佐のご遺族から提供いただいたものである。中央の眼鏡の軍人の後ろから顔を出すのが吉川。

上の写真の裏書(吉川の名前が見える)またこのメニューを受け取った樽谷も左端に写っている。
末松少佐について筆者はすでに「末松茂久少佐の戦時日欧通信記」の題名で、自身のホームページで紹介した。こちら
末松は吉川より4年あとの1910年生まれである。陸軍幼年学校を経て、1935年に東京帝国大学に送られ、1938年物理学科を卒業して陸軍航空研究所に配属になる。二人はともに東京帝大を卒業した。
また先に紹介したドイツ「技術院」でも吉川同様に第7(航空機)部門に属し、専門も航空発動機と全く同じである。二人は年も近く、同じ航空機関係の任務をそれぞれから与えられていた。
陸軍と海軍の違いは、海軍は潜水艦で日独の交流を続け、駐在者も限られた範囲であるが運んだのに対し、陸軍はそれがほとんどなかったことだ。陸軍軍人として海軍の潜水艦に乗ることに抵抗があったのかもしれないが、海軍も限られた輸送人員のスペースは、関係者以外に割けなかったのが、本当の所であろう。よって末松はドイツで終戦を迎え、抑留され日本に戻ることが出来た。
ベルリン駐在の陸軍武官坂西一良が1942年8月28日、日本参謀本部に送った次のような電報が残っている。
「海軍は朝香丸及び今回の潜水艦の例に有るように、自己の必要に際してのみこれを実施。これは御承知の通り海軍の海軍に有らず。長期にわたって潜水艦の派遣を実施されたし。」
ドイツの陸海両武官室も、あまり良い関係にあったとは言えない事を推測される。
付け加えると陸軍はイタリア籍の潜水艦で3名の駐在者を戻したが、無事に生還したのは1名だけであった。さらに伊号第29潜水艦でも若干名が帰国した。

吉川が家族の元に送った写真。(この写真は大切に保存されたしとある) これも末松少佐と一緒の見学で1942年秋と思われる。右は庄司元三中佐。
吉川中佐と庄司中佐は、航空機開発を担った広島県呉市の「広工廠時代」に官舎が隣同士で非常に仲が良かったという。そして庄司中佐も吉川が発った1年後の1945年3月、ドイツの潜水艦U234号で日本に向かうが、途中でドイツが降伏し、艦内で自殺を遂げる。
第二部以上
