<序>

筆者はこれまでに多くの欧州に滞在した邦人の足跡をたどってきた。当時、満州国の公使館もベルリン他にあり、そこに勤務した日本人の消息はかなり詳しく追うことが出来たが、”満州人“の戦後に関しては一切不明であった。日本の打ち立てた国家で働いた故、新生中国では過酷な時を送ったであろうとは想像した。

ハンブルク大学で「戦前のドイツにおける満州国と人民中国の代表権争い」という興味深い研究をしているシモン.プレッカー(Simon Preker)という方から連絡をもらった。筆者が「
杉本勇蔵の体験した戦前、戦時下のハンブルク」で紹介した満州国ベルリン公使呂宜文の写真に興味を持ったからであった。

筆者は初めて聞く話であるが、開戦前に満州国と中華人民共和国は、それぞれ代表をドイツに送りドイツの信任を得て、国交を開こうとしていた。

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1939年3月16日 在独満州国公使 呂宣文氏(中央)ハンブルク市公式訪問記念。

プレッカー氏によると、満州国のベルリン公使館で呂宣公使の下で理事官補として勤務した王替夫は、2001年に亡くなるが、生前何度かインタビューを受け「ヒトラーに会い、ユダヤ人を救った満州国外交官」と「ある満州国外交官の告白」いう2冊の本が中国で出版されている。(タイトルは筆者訳)

その中で王
替夫は1939年から1940年にかけてユダヤ人に数千枚の(通過)査証を発給したと述べた。そのまま読めば、「満州国のシンドラー」とも呼べそうである。戦後呂宣文公使は処刑されたが、王潜夫は何年か刑務所に入れられたが、その後は釈放となったらしい。

それらの本の紹介文も送ってもらったが、筆者は中国語を解せないので内容は不明である。ただし後者の本には、実際の査証が写真で紹介されている。

両開きの査証の右ページに、王潜夫という文字が見え、手書きの1940年7月19日の日付も見える。そして査証の下にスタンプで“7.9.26”の数字、“7.9.29”の数字が読める。ビザの所有者はその後満州国に入ったのが康徳7年(満州国の年号で1940年を指す)9月26日で、出国が9月29日であったのであろう。

筆者が驚いたのは、その左ページにある査証である。
「通過査証 昭和15年7月2X日 在維納大日本帝国総領事 山路章」と日本語で書かれている。つまり1940年7月2X日(数字が一つ抜けている) ウィーン総領事 山路章」という査証も記載されているのである。

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ウィーン総領事館 山路公使(前列左端)と家族および館員

山路公使について筆者は先に述べた山路綾子さん(のちのソ連大使夫人)の父親である。筆者は

「綾子さんが学校からの帰り、総領事館の前に多くの人が行列をなしていたのを目にする時期があった。」とすでに書いた。詳細は不明のままであったが、彼女の証言を裏付ける資料であることは間違いない。ウィーンの総領事館にも日本の通過ビザを求めて、ユダヤ人が押しかけたのであった。


<欧州最初の請訓電>

当時の史料を保存する外務省外交史料館には、ユダヤ人関係の記録が良く残されている。またこれらを調べ上げ、
「日本のユダヤ人政策(阪東宏)」という本が出版されている。

それらによると1938年(昭和13年)9月30日、ナチス・ドイツのユダヤ人迫害によって極東に向かう避難民が増えていることに懸念を示す山路ウィーン総領事は、ユダヤ難民が日本に向かった場合の方針を照会する請訓電報を送った。山路公使一家が日本郵船の諏訪丸で任地ウィーンに向かったのは同年6月の事であったので、着任早々の報告であった

その内容は、
日独間にはビザの相互廃止の取り決めがあるのでビザは不要と拒否しているが、他国を通過する時に必要だからといって、「泣訴」されている事、この数日は毎日平均50人以上が来館するので発給を中止しているなどの現状を報告し、次の項目について質問している。

1 従来通り、日独間のビザ不要の文書を出しても良いか?
2 (ビザ発給するには)何らかの提示金が必要か?
3 無国籍ユダヤ人を一般の無国籍人と同等に扱っても良いか?
4 ユダヤ人の日本入国についてどのように扱ったらよいか?

ユダヤ人の日本への渡航希望者が増えていることを最初に欧州から本国に警告したのが、山路公使であった。それに対する返事がなく、山路はその後も2度にわたり指示を要請する。

同年10月7日、ようやく近衛外務大臣から在外公館への極秘の訓令が回電された。次の2点を指示された。

「無国籍避難民に対しては渡航証明書を発給しない、ただし日本を通過するだけの者に対しでは先行国への入国手続きの完了と、250円以上の提示金を持つ者に限り、通過渡航証明書を発給しても良い。

ドイツ国籍のユダヤ人に対しては、これ以後本邦入国の願い出があっても、査証を与えざるはもちろん、その他の証明書は出さず、「本邦渡航を断念させるよう説得」されたい。」
ドイツ国籍以外としたのは、友好国ドイツに対する配慮からであろう。


<山路公使の発給したビザの意味>

山路公使の発給したビザは杉原千畝同様「命のビザ」と言えるのであろうか?専門家でないので深く立ち入れないが、杉原とは異なり、本国の指令に基づいた、「合法的ビザ」であることは間違いない。

1940年1月から1941年3月の間に発給した日本通過ビザの数は、領事館別に以下の通りとなっている。これらはほとんどユダヤ人であろう。

ウィーン総領事館 786通
ハンブルク   1414
ベルリン      691
プラハ       71
ストックホルム  334
モスクワ     152

この領事館別発給数を見た場合、ベルリンよりハンブルクの方が多く、山路公使のウィーンはそれに次ぐ。ベルリンはナチスのおひざ元であり、特に発給に厳しかったのであろう。

ちなみに杉原領事代理は1940年実質8月の一か月で本国の指令に反し2139通のビザを発給、家族を入れると5000人くらいが、そのビザで避難できたと言われている。ウィーンからも山路公使の786通のビザで、少なくとも1500人位のユダヤ人家族が避難することが出来たと言えよう。

またこの頃、別にベルリンの満州国公使館でも、王潜夫が言っているように1000通以上のビザが発給されたのであろうか?当時は欧州から日本に行く場合、シベリア鉄道をチタで乗り換え、満州国の国境近くの町オトポールから、まず満州国に入るのが普通であった。よって日本国と満州国の通過ビザ両方が必要であったのかもしれない。つまり日本の通過ビザを持つ人に対し、半ば自動的に満州国の通過ビザは発給されたのかもしれない。

まだまだ想像の域を出ない事が多い、山路公使の発行した通過査証である。

本編:山路(重光)綾子さんの体験した戦時下の中欧


「野上弥生子全集 第二部 第6巻」の欧州旅行の日記には、ベルリンのユダヤ人が迫害されている様子が記されている。そして1939年8月2日には
「(ドイツ)日本大使館員の官僚主義 通信受け場所に(緊急の)電報まで投げ込んである。
領事館でビザ取りのユダヤ人、別の入り口に列をなしたり」とドイツ開戦間際に、ビザを求めるユダが人が、ベルリンの日本大使館にも押し寄せたことを記している。

(追記 2015年7月19日)

筆者の横浜市歴史博物館での「杉原千畝と命のビザ展」訪問記は
こちら