山路章ウィーン総領事、後ブルガリア公使の長女、山路綾子さん(後に駐ソ連大使夫人)にお話を伺い「山路(重光)綾子さんの体験した戦時下の中欧」をまとめたのは2013年春の事であった。
その後彼女に関連して情報を寄せてくれたのは木村 洋(数学史家)さんである。満鉄のベルリン駐在員であった西畑正倫の1945年の行動記録があることを教えていただいた。そこに短いが以下の記述がある。
1945年4月9日,
「ストローブルの山路公使のビラを訪ね、荷物の一部保管をお願いする。家政婦のフルーザー嬢は日本に居住したこともあり江藤夏雄(当時満鉄職員-筆者)君も知己とか。久方振りの日本食は美味しかった。」
陸軍武官室に雇われていた西畑は、ドイツ敗戦の直前に、ベルリンからオーストリアのバート・ガスタインに避難の途中、山路の別荘に寄ったことが分かる。そしてオーストリアの山の中で日本食を食べたのであった。
このビラ(別荘)については筆者の先述の拙文の中で紹介している。そして教育係の女性について山路綾子さんは次のように語った。
「山路家にとってKinderfraeulein(子供の教育係で日本的乳母ではない)との付き合いは一生ものであった。彼女が山路家の面倒を見るのはハンブルグ駐在時代からで、1934年の帰国時には一緒に日本に来た。その後、またウィーンに向かい今回別れるが、戦後はロンドンにも来てもらい、その時は綾子さんの子供らの面倒を見てもらった」
西畑が書く”日本にいた事のある家政婦フルーザー嬢”と、山路綾子の教育係の記述はぴったり一致する。こういう風に二人の証言が符合すると、筆者は無上の喜びを覚える。
そこで着物を着る西洋女性の写真が残っている。これは家政婦のフルーザー嬢ではなかろうか?さすがに外交官とはいえそう何人も使用人を雇えないであろうから。
ただし、西畑が訪れた4月9日、綾子さんらはすでにスイスに入国していた。スイス入国ビザを入手出来なかったフルール嬢が、ビラに留守番として一人でいたと思われる。そして彼女は戦後、今度は綾子さんの子供の家庭教師となった。


本編:
