<スイスよりの第10信 封書 ベルリンから>
末松がスイスからドイツに戻る直前、悲しい事態に遭遇する。次は5月3日付けで出そうとした手紙の内容である。
「5月1日スイス郵便長官のお触れが出て、当分の間日本向けの郵便物は取り扱わないことになった。満州へも、タイへも。理由はトルコにおける郵便物の停滞。
滞在3か月の予定通り、5月6日に当地を去る予定。初めから病気でもなかったので、勿論今でも病気ではない。
この手紙、何時スイスから発送できるやら。日本との唯一の郵便路の取り扱いが、当分の間中止となった。ようやくうまい方法を思いついて、手紙を出し始めたのに、すぐまた停止になってしまった。」と、スイスから手紙を出せなくなった悔しさが書き記された。また家族に心配かけまいと自分の健康状態について書いている。
スイスからベルリンに戻った末松であったが、彼のスイス通信は続く。間もなくスイスと日本の間の郵便も復活し、第10信は12枚の手紙である。
「8月11日。スイスから来たお客さんが2,3日のうちにまたスイスに帰るという。聞けば近頃は日本とスイスの間の郵便も随分早く行き来するようになったとのこと、あわてて手紙を書く。
スイスで書いて出しかけてやめた5月3日付けのハガキと、併せて第10信とする。」
スイスで書いて出しかけてやめた5月3日付けのハガキと、併せて第10信とする。」
ベルリンに戻った末松が見つけ出した次の方策は、スイスに行く邦人に手紙を託し、現地で投函してもらう事であった。
8月20日 第11信(9枚)で手紙はドイツで書かれたものであることを知らせる。
「今日スイスから、お客さんが一人見えるという事を聞きこんだ。その方にお願いしようと思って、第11信とする。本当は“スイスを通しての第11信””としなければいけないのかもしれない。
この前の第10信からはスイスで直接投函したものではないと承知していてもらいたい。」
<二つのルート>
ベルリンに戻った末松は前述のスイス通信と、従来の日本に帰る人に手紙を託す方法の二つの交信手段を持つ。そしてこれらの発送の機会は突然訪れるため、日頃からいろいろ書き溜めていく。そのため、同じような内容の手紙が日本に届くようにもなる。
9月13日から10月12日までの日記風記述を同封したスイス第12信は25枚と長文であるが、その解説をしている。
「こういうご時世だから出した手紙がみんな着くとは限らない。従って同じことを二度も三度も書いたりするのは、読む方では少しつまらないかもしれないが、仕方がない。けれども日を違えて書けば、中身が同じでも違った味があって、必ずしもつまらないとは決まらないであろう。」そしてこの内容も、複数回日本に書き送っている。
「郵便でどんどん手紙を出してほしい。もっとも郵便(封書)では中身が全部外国で読まれるから、十分注意の上にも、注意を重ねることが大事である。
詳しい(自分のドイツの)宛名は(最近日本に戻った)西郷さんにでも尋ねろ。郵便は中央郵便局なら、必ず受け付けてくれると思う。」
日本には相変わらず、送り方の細かい指示を出す。小さい郵便局では国際郵便についてよく分からないであろうから、中央郵便局で出せと指示した。
「10月6日 (航空)研究所生活ももう2ヶ月、教授や他の技師連中などとも大分仲良くなった。おととい、その中の主な教授連を4人ばかり我々陸軍で招待し、一緒に昼飯を食べた。招待側も俺を入れて4人、ご主人役は航空の方の御大将、大谷(修)少将が務めて下さった。」
大谷少将は航空機関係の責任者であった。彼の断片的に残る「ベルリン日記」にも末松が登場する。
「先日、ある知人が、日本から郵便で送ってきた新しい雑誌を受け取ったと話してくれた。それは”改造”で今年の7月号だった。(新しい雑誌は)貴重品の中の貴重品である。雑誌を一冊ずつ分けて、郵便でスイス宛てに送ってくれ。”文芸春秋”と”新指導者”を毎月。」
日本の活字に飢えた末松の様子が伝わってくる。
日本の活字に飢えた末松の様子が伝わってくる。
<1943年12月1日 スイスからの第13信。14枚>
またベルリンの日本人にソ連の通過ビザが出た。
「先日、日本に帰る人が5,6人あったので、その人たちに渡そうと大騒ぎをして手紙を書いた。確か牛場書記官にお願いしたはずである。2度目に書いたものは(ヤマハ発動機の)佐貫さんにお願いした。広瀬がベルリンに来た時、写した写真を送ったはずである。
「先日、日本に帰る人が5,6人あったので、その人たちに渡そうと大騒ぎをして手紙を書いた。確か牛場書記官にお願いしたはずである。2度目に書いたものは(ヤマハ発動機の)佐貫さんにお願いした。広瀬がベルリンに来た時、写した写真を送ったはずである。
何しろ大勢の人が出紙を頼むであるから、手紙以外品物は一切お断りという所を無理して、生フィルムと写真とを持って行っていただいたのである。」
フィルムを送れば日本で焼き増しして、多くの人に配れるという配慮であろう。そして写真も例外として受け取ってもらった。
「広瀬がハンガリーに行ったとき、ちょうど(日本へ)出発前の大久保公使に会ったそうである。大久保公使が”末松はどうしているのか?”と聞かれた。」
何度が名前の出る広瀬栄一駐フィンランド陸軍武官は、暗号の専門家という事で戦後、いくつかの書物に登場する。末松は
「ヨーロッパでたった一人の同期生に会えることはなんともうれしい事である。」と別の場所で書いている。同期生の結束が固かった軍隊である。
なお限られた社会層の人間が欧州に駐在となった為か、末松がベルリンで交流する人物には同期の他、義理の兄弟、学校の同窓、妻の同窓などの縁が頻繁に見られる。
また上の文章から推測して大久保利隆公使は末松と面識があった。1941年に末松がハンガリーを旅行した際に会ったようだ。

末松と同期広瀬(右)
「11月の末、大規模の空襲に見舞われたが、日本人は全員無事、一人火事を消してけがをした人があった。もう一人、どこへ行ったか分からない人があるが、この人は普段から、日本人仲間と全く付き合いのない変わり者だから、どこかへ行っているだろうという噂である。」
ベルリンの大空襲についても手紙に登場する。ここで怪我をしたとあるのは満州重工業の浅井一彦で、彼の被災の様子を、筆者はすでに自身のホームページで紹介した。一方変わり者は誰であるのかは不明である。
「ゆうべは、うちに陸軍武官他、六人ばかりの日本の陸軍の将校を夕飯に招待した。天ぷらをご馳走した。油は久さんが旅行で買ったルーマニア製の上等なオリーブ油、種物が生憎いいものがなくて、肉と玉ねぎとねぎの三種だった。おつゆと天ぷらは本職の日本人の料理人がやった。勿論なかなかおいしかった。」
天ぷらの具が三種類とは少し寂しいが、専門家の作った天ぷらを楽しんだ。
また第14信(14枚)ではドイツの建物について説明の後に「現に久さんと一緒に住んでいるいまのうちの一階はパン屋である。」と書かれている。

末松の下宿 この3階に住んでいた。確かに下にBaeckerei(パン屋)の看板が見える。
また「内務省の佐藤(彰三)という人は、日本でも有名な素人の碁打ちで」と末松は書いている。最近出版された「私が最も尊敬する外交官」という本の中で、当時ベルリンの大使館で外交官補であった吉野文六は佐藤について聞かれて
「この人は、見かけは非常におっとりした人なんです。碁が大変強かった。恐らく当時のベルリンに住んでいる日本人の中では一番強かったでしょうね。」と答えた。このインタビューは戦後60年以上経過して行われた。吉野の素晴らしい記憶力に驚く。
第四部以上