<トランク発送>

末松は手紙のみでなく、荷物の輸送も試みている。1942年末、日本に向け、木枠を作らせその中に小さなトランクを入れて日本に発送した。少し先回りすると翌年8月の手紙から、その経過を知ることが出来る。

「1943年8月26日
昨年日本宛てに送った荷物は一度出た船が舞い戻って来たため、まだドイツの港にあるとの事だった。小さなトランクの中身は次の通り
中身 白木綿ワイシャツなどの地 8メートル
紺無地洋服地 3メートル。
澄子用 スイス製オメガ腕時計。」(中身の多くは略)
日本ではなかなか手に入らないものばかりを送った。

日独は太平洋の制海権もないので、正規に荷物を送るルートはない。この頃日本から来た潜水艦にそのトランクを特別に積み込んだかとも思ったが、「船が港に戻った」という記述からすると該当する潜水艦はない。他に考えられるのは厳重な連合国の海上封鎖線を強引に突破してドイツから南洋、日本に物資を運んだドイツの封鎖突破船である。これも末松の考え出した方策であったが、結局トランクは日本には着かなかった。

「各飛行機会社、研究所など、見学の許可のある毎に陸海軍合同でよく見学に出かけた。同封の写真でも、そのことがうかがわれよう。」
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1942年11月 アウグスブルク メッサーシュミット飛行会社見学。右から二人目が珍しく軍服姿の末松。さらに2人目は大谷陸軍少将、その右が豊田海軍中佐。濃い黒の制服が海軍、薄い色が陸軍の関係者
 


<スイス通信開始>

1943年2月3日、戦時中は取得の難しかったスイスの入国ビザを得て、末松はスイスのフランス語圏の保養地レザンに向かう。そして3月1日、レザンの郵便局から、スイスの官製葉書で日本に向けて試しに書き送る。「スイスよりの第一信」と記されている。

日本の逓信省が1942年2月に”スイスへの手紙の送付は可能”と言ったことはすでに紹介した。
「2月3日、ビザが下りて、ようやくスイスに来られた。南スイスの海抜1400メートルという風光明媚なレザンという所。戦争の最中にいくら暇だと言っても少しもったいないみたいだ。

もともと病気ではないのだから、スイスに来たからどうという事はなし。なお5月からドイツ空軍の航空研究所にしばらく入る予定。
日本、スイス間に今でも郵便が往復しているので、試みに葉書を出してみる。検閲に手間取らせぬため、わざと葉書にする。

返事をくれてもその時はもうスイスにいないであろう。ただスイス公使館の山田海軍中佐宛てに出せば、ついでの時(ドイツまで)届けてくださる。葉書の方が良い。“ベルリン陸軍武官室”の肩書を忘れぬこと。」

官製葉書で出すのが一番着きやすいと末松は考えた。また本人は日本の家族に心配をかけたくないからであろう、スイスに来て「もともと病気ではないのだから」と書いているが、いかにも不自然だ。

レザンには有名な結核保養所があり、他にも陸軍の紹介で日本人が入っている。末松は結核の兆候ありと診断され、3か月の療養を許されたのだろう。当時日本人駐在員で結核に罹る人は多かった。そして外交官関係者は同じくスイスのダボスの療養所を利用している。

もっぱら療養の身であるから、時間も持て余し気味であったのか、4月12日にはもう「スイスよりの第七信」となる。宛名の上には末松の手書きで“バーゼル、シベリア経由”と書かれている。逓信省が日本参戦直後に発表したのとまさに同じルートである。

「ある所から文芸春秋昭和17年8月号及び10月号、“改造“同年8月号の三冊を手に入れた。とても面白い。新聞は今年の1月ごろ発行のもの(朝日)を少し読んだ。日本からのラジオは聞こえぬ日もあるが、大抵よく分かる。

なるべく(日本の弱い)官製葉書より葉書大の厚紙の方が良かろう。回数を多く出す事。内容は良く考えて当たり障りのないことばかりを書く事。」
後に述べることも照合すると、ここに出てくる雑誌、新聞は同じくシベリア経由の郵便で運ばれたと推定できる。ソ連は書籍のようないわゆる印刷物の郵送も引き受けたようだ。「当たり障りのない事ばかり書け」と言う指示も興味深い。
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冒頭にも紹介したスイスよりの第20信 官製葉書にバーゼル、シベリア経由と書かれている。書いたのは1944年3月24日だが、ベルンの消印は4月5日。文章は毎回裏面にもびっしり書かれている。



<スイスよりの第9信 封書>

この頃末松は日本とのコミュニケーション維持に強い意欲を持っていた。葉書が届いたことを知ると、今度は封書を試みる。
スイス第9信は便せん16枚と、以前帰国者に搬送を依頼した手紙並の長さである。

「1943年4月19日 先日スイスから郵便で送った葉書がほとんど全部日本に届いている聞き、ひとつ封書を出してみようという気になった。
もったいない話であるが、(ベルリンの日本人は)内地の人よりは何といっても暇が多い。ベルリンの日本人の総数が現在約300人だから、人が多すぎて、仕事が足りない事は、この点からだけでも想像がつく。

(婦女子は引き揚げてしまったので)大部分が荒くれ男、大和撫子は10本の指で数えてみても足りる位だから、自然殺伐になるのはやむを得ない。」

長い手紙の中で、再びベルリンの日本人は、仕事が十分ない状況にあると伝えた。末松もその一人であったと想像できる。

第三部以上