<日本開戦 郵便の途絶>
1941年12月8日、日本が参戦すると、アメリカ経由の郵便も不可能となる。それでも日欧間で全く郵便が途絶えた訳ではなかった。
翌1942年1月23日、逓信省は
「欧州一部へ郵便物再開」として、シベリア経由で中立国であるトルコ、ブルガリア、スペイン、ポルトガルへの郵便物を24日より受け付ける」と発表した。
翌1942年1月23日、逓信省は
「欧州一部へ郵便物再開」として、シベリア経由で中立国であるトルコ、ブルガリア、スペイン、ポルトガルへの郵便物を24日より受け付ける」と発表した。
日ソ間で郵便物交換の取極めが成り立ったからであった。ソ連も日本の大使館からなどの手紙を満州国経由で受け取る必要があったのであろう。
知らせを聞いた欧州邦人は喜んだものの、どのような経路で郵便が配送されるのか半信半疑であった。逓信省からドイツに派遣されていた山岸重孝事務官は知らせに接し、大島大使の名前で
「取扱いを開始するにあたり、郵便物の種類、取扱国その他注意を要する事項を至急連絡するよう」本国に依頼をした。同様の内容の電報はトルコ、ポルトガルなどの大公使館からも、いっせいに日本へ寄せられた。
「取扱いを開始するにあたり、郵便物の種類、取扱国その他注意を要する事項を至急連絡するよう」本国に依頼をした。同様の内容の電報はトルコ、ポルトガルなどの大公使館からも、いっせいに日本へ寄せられた。
1月31日、東郷茂徳外務大臣名で、大島大使に回答が送られる。
欧州郵便物のシベリア経由の件。
「本邦は1月24日よりブルガリア、スペイン(アフリカの植民地を含む)モロッコ(スペイン地帯)ポルトガル(アフリカの植民地を含む)スイス、トルコ宛の通常郵便物の送到を再開せり。遍総経路はシベリア、フイフリス、エルゼルム、イスタンブール、ウィーン、バーゼルなり」
「本邦は1月24日よりブルガリア、スペイン(アフリカの植民地を含む)モロッコ(スペイン地帯)ポルトガル(アフリカの植民地を含む)スイス、トルコ宛の通常郵便物の送到を再開せり。遍総経路はシベリア、フイフリス、エルゼルム、イスタンブール、ウィーン、バーゼルなり」
郵便はソ連領中央アジアを経由し、中立国トルコに入った。そこから陸路、枢軸側のバルカン諸国を通過して一端スイスのバーゼルに届き、さらに別の中立国に送られる手はずであった。
また占領されたパリから手紙は出せなかったが、ビッシー政府管轄内では日本宛ての手紙を受け付けたという。
外務省はテストを兼ねて幾度か書類を郵送した。翌1943年1月7日、谷外相はその結果について大公使館宛に報告する。ずいぶんとテストから日が経っているが、
「昨年2月6日、試験的に貿易報告書を封印し、トルコ、メキシコ、スイス、スペイン、ポルトガルに送った。そして4月末までに、トルコとメキシコ及びスイスには到着した。しかしながらマドリッドとリスボン向けの郵便は、おそらく途中で英国当局の手で没収されたと報告してきた。日本では没収の詳しい場所も理由も分からない。
また欧州から日本への郵便も事故が続いている。スイスのベルンとトルコのアンカラから送られた幾枚かの写真は、二ヶ月かかって東京に着いた。しかしながら添えられているはずの手紙は届かなかった。」
筆者もこれまで欧州駐在者から送られたという手紙を見たことがあるが、差出国のスタンプがないものばかりであった。先に述べたように、特別に日欧間の往来をした日本人によって運ばれたものが主体であると筆者が考えた所以である。

友岡久雄教授がベルリンの日本大使館の封筒に入れて送った手紙。切手が貼られていなければ消印もない。(帰国者によって運ばれた手紙の例)
<1942年12月 帰朝する人に託した手紙>
日本参戦後は外交クーリエによる手紙の輸送が出来なくなった。次に残るのが前の便から1年ほど経った“帰朝する人に残した手紙“である。便箋19枚に細かい字でびっしり書かれている。
「澄子殿
11月22日夜に書きはじめる。実は9月中ごろだったと思う。恐ろしく長い手紙を書いて好便に託して送った。果たして着いているかどうか?(中略)
公用の重要書類で多数日本に送られたものが、途中戦禍のため、紛失したというような事件も聞いたから、あるいはこの便と一緒に送られたとすれば、着いていないことになる。」と書くが、この9月の手紙は現在残っていないので、実際に着いていないようだ。先の東郷外務大臣の電文にもあるように、郵送途中の事故は多かった。
11月22日夜に書きはじめる。実は9月中ごろだったと思う。恐ろしく長い手紙を書いて好便に託して送った。果たして着いているかどうか?(中略)
公用の重要書類で多数日本に送られたものが、途中戦禍のため、紛失したというような事件も聞いたから、あるいはこの便と一緒に送られたとすれば、着いていないことになる。」と書くが、この9月の手紙は現在残っていないので、実際に着いていないようだ。先の東郷外務大臣の電文にもあるように、郵送途中の事故は多かった。
「今度帰る連中は、先にも書いた第一次の人全部と、第二次の半分に民間の人が若干である。現在のベルリンにおける(最高位である)陸軍武官、坂西一良中将を筆頭に飯島大佐、、、、」とソ連のビザを取得し帰るグループがあることを紹介する。
先にも紹介した本、”大戦中在独陸軍関係者の回想”には”坂西武官送別記念 1942年11月29日”という武官、末松を含み45名の集合写真が掲載されているが、提供者は末松である。同本の編集にも末松が日本に送った写真が大いに役立った。
「この手紙は戻る中村中佐か西郷中佐にお願いして持っていってもらう。着くことはほとんど確実だし、第一非常に速いのでないかと思う。(別に)送る荷物はがっちりした木箱に収まり、陸軍クラブ内に留まる。」

「右端 西郷中佐 ベルリン郊外へ遠出(自動車)の時」 末松は意識して帰国が決まった人と付き合ったかもしれない。手紙の便宜を図ってもらうためにである。
世界大戦中も日本とソ連は中立関係を維持した。そしてソ連は自国民に日本の通過ビザが必要な場合にのみ、日本人にもソ連の通過ビザを発給した。そのビザで例外的に日本に戻る人に、手紙を託したのである。末松のみでなく、ほとんどの在留邦人が書き、帰国者のトランクひとつは、そうした手紙で一杯になった。(中村昌三中佐らの帰国に関してはこちらを参照)
西郷従吾中佐について末松は「侯爵様のお跡取り」と書いている。祖父西郷従道は西郷隆盛の弟であった。
また筆者の関心事である日本食事情についても書かれている。
「米の飯:たいがいの日は日に一度、時によれば二度、昼と夜に米のご飯を食べる。正真正銘の白米、イタリーに育った良質の白米。細長い。この米だと毎日食べられるので助かる。
「米の飯:たいがいの日は日に一度、時によれば二度、昼と夜に米のご飯を食べる。正真正銘の白米、イタリーに育った良質の白米。細長い。この米だと毎日食べられるので助かる。
ベルリンに日本料理屋が三軒ある。第一は日本人クラブの食堂。時々クラブが主催になって色々な催し物がある。大東亜戦争中には二回ばかり、ここで戦勝の祝賀会があった。
他の二軒はあけぼの及び東洋館という。何れも店の前に日本字で看板が出ている。現在食糧欠乏の為、日本人の他“入場お断り”となっている。日本料理屋では飯が(配給)切符無しで食べられる。」
あけぼのについてはこれまで筆者は幾度か紹介してきた。ドイツでは食品が切符制となっていたが、日本食レストランは例外であった。

日本食レストラン あけぼの(田辺平学著「ドイツ 防空・科学・国民生活」より)
続いて日本から送ってもらいたい品物を書いている。リストにはいろいろあるが、食品だけ紹介する。
「送ってもらいたいもの。これは一纏めにして陸軍省に予め出しておくのが良かろう。ベルリン到着以来、手紙以外は何も受け取っていない。
4 食料品 (味の素、このわた、のりの佃煮、鰹の塩辛、番茶など気の付いたものは何でもよい。)」
「送ってもらいたいもの。これは一纏めにして陸軍省に予め出しておくのが良かろう。ベルリン到着以来、手紙以外は何も受け取っていない。
4 食料品 (味の素、このわた、のりの佃煮、鰹の塩辛、番茶など気の付いたものは何でもよい。)」
第二部以上