<友岡と笠>

笠は1943年秋、ドイツの近い将来の崩壊を見越し、スイスに居を移してしまう。友岡はそれで家族に手紙で書き送ったように話せる友人を失ったわけだ。
 
友岡がベルリンに来たのがその年の3月である。それからの短い期間でそんな気の許す友人になれるとは思わないので、この点からも戦前からかなり交友があったと考えるところである。
    
1943年10月11日に笠氏は一端ベルリンに戻り、友岡と一緒に日独伊混合委員の海軍責任者、阿部勝雄中将を訪問する。阿部のその日の日記には「夜、笠信太郎氏と友岡氏を招待。小野田(大佐)、辻(阿部の秘書)と5人で夕食会。11時PMまで懇談する。空襲なし。」とあるので、阿部中将が招待したようだ。

その訪問者サイン帳に二人は名前を残している。友岡は笠に「同行」と書いている。そして「過去帳に名を連ねるや、爆撃下」という言葉は笠によるものであろう。阿部は毎晩のように訪れる客に一言書かせ、それらは一冊の立派なサイン帳になっていた。

連合国の空襲でこれから名前を書いた人が皆死亡すれば、このサイン帳も、お寺などで死者の名前を連ねる過去帳となるという、笠の皮肉であろうか?
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阿部中将のサイン帳
 


<斉藤正躬>

1941年、友岡がリスボンに着任当時、同盟通信社の特派員として斉藤正躬がいたが1944年にはストックホルムに移っていた。ここで一つ事件があった。崎村茂樹という経済学者が、ベルリンからスエーデンに来て西側のジャーナリストの接触を受け、それがニューヨークタイムズ紙などの記事になった。

ベルリンの日本大使館は面食らったが、その崎村の行動を弁護すべく、斉藤がベルリンの内務省出身の佐藤章三に書簡を送った。そしてその文末に
「爆撃下の貴殿(佐藤章三)のご生活案じ候。末筆ながら友岡大人、水高同窓会諸兄によろしく」とある。佐藤章三はベルリンでは在留邦人の思想チェックをすることが任務の一つであった。それで崎村のような事件があると、登場するわけだが、そんな人物に「友岡によろしく」と書くのは興味深い。佐藤はおそらく友岡とは浅間丸で一緒であったので、面識があり「友岡によろしく」と書いたとも推定される。
 


<終戦>

1945年はドイツが降伏する年である。昭和研究会、法政大学で戦前親交があった平貞蔵の回顧録に「ちょうど法政の友だちの友岡君が外国から帰ってこられなくて、家族たちが山口に行っていたので」という記述を眞子さんが見つけている。

1945年、平が山口県の商工経済会で講演した際、同地に縁故疎開していた眞子さんら友岡の家族を訪問した。平も友岡は短期的な留学と聞いていたため「外国から帰ってこられなくて」と書いたのかとも想定される。どうも周囲にはっきり「外務省の嘱託として欧州に行く」と言わなかった背景は今後、さらに調査の必要がある。

一方ドイツの友岡にとってこの頃の家族の消息は、東京の外務省から送られてくる短い電文でしか、知ることは出来なかったはずだ。

この年の1月、ベルリンの日本大使館によって「在留邦人リスト」が作成された。これはモスクワの日本大使館からソ連側に手渡され、ソ連軍のベルリン進駐の際に、彼ら邦人の保護と日本への送還をお願いした。日本とソ連の間にはまだ中立条約が存在した。

リストの名前は大島大使を筆頭に外交官から始まる。以下参事官、書記官、外務書記などあらゆる等級の外交官が75名登場した後、嘱託が挙がっている。嘱託は一番若い外交官の下であった。一番は野上素一、イタリア留学生から現地で嘱託になった人物で、母親は小説家野上弥生子である。次いで友岡である。その後の染矢為介は“欧州無宿30年”と言われたような人物である。細かく分類すると友岡は外務省嘱託で、他の殆どは現地滞在者が雇われた大使館嘱託であった。

連合軍がドイツ内に進攻しドイツの敗戦が近くなると、邦人はベルリンの疎開を始める。3月には、日本大使館の業務はほとんど停止していた。通商経済部は日ソ間にまだ中立条約が残っていたので、ソ連の占領下になると予想されるベルリン東方100キロのプレンツラウ市に避難した。メンバーは松島鹿夫公使以下18名で、先に紹介した日本郵船の菊池庄次郎も含まれていた。

18名は大使館雇となった民間人が主であったが、友岡はそこには加わらなかった。この理由は不明である。ベルリンで友岡は経済部に所属したのかも判然としない。いずれにせよソ連軍が迫るベルリンの大使館に最後まで留まった。

その友岡が外交官の避難場所、オーストリアの保養地バート・ガスタイン目指してベルリンを去ったのは4月10日、ドイツの降伏まで一か月を切った時であった。メンバーはリスボンからの小野孝太郎一等書記官、イタリアからの金倉英一官補、フランスからの佐藤正三官補、アメリカからの藤山楢一官補、それに志水志郎官補と友岡の計6名で、いわば非ドイツ派外交官の一行であった。車を連ねての避難であった。友岡は免許を取ったことが役立った。

小野はリスボンで友岡の後任であったが、彼もベルリンに転勤となった。最後、外交官はもっぱらドイツに集められたのであろうか?途中で友岡の車が故障するなど大変な避難は、戦後藤山楢一が回想録に「恐怖の脱出行」という章で詳しく書いている。
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バード ガスタイン 当時の避難者が買い求めた絵ハガキ
 

 
<抑留>

バート・ガスタインでアメリカ軍に抑留された大島大使以下の日本外交官は、アメリカに移送される。バート・ガスタインを去るに当たり携行を許された荷物は一人当たり45キロであった。多くの邦人はそれ以上の荷物を持ち込んでいた。それらはホテルに預けておくしかなかった。そして戦後しばらくたってから友岡を含む関係者で、お金を出し合って、代表が現地に調査に赴いたが、アメリカ兵に奪われたのか友岡の荷物は残っていなかった。

そして日本の終戦もアメリカで迎える。抑留中はすることもなく、多くの邦人は麻雀などで毎日を漫然と過ごしたようだ。一方抑留者には各方面の有識者が数多く含まれていた。大谷修少将は1945年11月15日の日記にそんな引き揚げ者に関して、次のように記している。

「全欧に短きも5年、長きは25年に渡り勤務ないしは営業したる人々の集団なり。しからば語るところ、政治、外交、経済、新聞、食糧、、、(略)多方面に渡り、ちょっと得られぬ常識養成の機会なり。

多くの人々はトランプ、麻雀に朝より深更に及ぶまで時間を費やすが、われは努めて知識を求めることに努力した。特に余に教える所ありし人々は」と書き、印象に残る講演のテーマと発表者の名前が書かれている。そしてその中には

友岡法政大学教授のドイツ統制経済」が入っている。収容所内でも友岡はこうした講演を行ったようだ。またドイツ駐在中は連合国の情報収集ではなく、ドイツの統制経済を調査していたことを推測させる。
その後同年12月6日、一行は神奈川県の浦賀港に到着する。4年ぶりの日本では友岡の恐れた旧体制も終焉していた。

友岡が日本に戻ったのは初冬で、コートを着ていたが、それは日本では見たこともない立派なコートであった。また少ない荷物であったがトランクの中の品物も、どれも立派で驚いたことを眞子さんは覚えている。友岡自身も滞在中はしばしば日本の生活水準の低さを実感したことであろう。

抑留されたアメリカのホテルの売店で日本人は、日本ではお目にかかれないであろう、生活用品を一部の夫人たちが買い占める騒ぎもあった。友岡は二人の娘のために、天才バイオリニスト諏訪根自子にセーターを選んでもらい、それをお土産に持ち帰った。アメリカのホテルの売店の商品ですら、日本のものをはるかにしのいだのだ。

ただし眞子さん用は戦時下の日本に溢れていた国防色(カーキ色)に近い色のカーディガンで、一方の妹用は空色の華やかなものであったので、そちらがとてもうらやましかった。諏訪根自子は女子中一年生と聞いた眞子さんにはシックな色のものを選んだのであろう。
 


<終章>

日本で捜査の手を逃れて欧州に向かった友岡であるが、こうして断片的な資料から見てきたところによると、欧州滞在中、笠信太郎とは本音を語り合った。一方他の駐在員、外交官、軍人、民間人とは自分の心情を表に出すことなく、無難な付き合いをしたようである。
 
そしてそれはおそらく友岡が唯一、欧州で駐在を続けることが出来た道であった。また嘱託という身分では仕事上苦労も多かったことが推察できた。

日本に戻った友岡であるが、どこか元気がなかった。眞子は「いよいよ父の時代が来たのに」と思い、なおさらいぶかしがった。実際に大学でもいづらかったようだ。
 
周囲は「大変な時代に海外に出て楽をしやがって」という目で見た。日本では厳しい空襲、物資の欠乏などがあったが、友岡の友人は思想的にも厳しく締め付けられてきたから、こうした思いにとらわれたのであろう。

また友岡は思想的にも全く穏健になっていたという。理想としていたソ連に幻滅し、ナチスというひどい政権下ではあったが、人々の生活水準の高さに感嘆したためかもしれない。

そして1966年夏、66歳で友岡は死去する。笠は新聞記事でそれを知ったか、杖を突いて弔問に訪れた。

終わり

最後の私の書いたものに目を通し、いろいろなコメント、思い出話を披歴いただいた磯貝眞子さんに心からお礼申し上げる。

その後に見つけた新資料に関して、藤村の新たな人脈? 友岡久雄教授も参照ください。

 
 

 



友岡教授の長女で、筆者も何度かお話を聞いた磯貝眞子さん(洗礼名・グレース)(83歳)は、3年間ガンとの闘病を続けていましたが、2016年9月8日11時18分永眠されました。謹んでお悔やみ申し上げます。

 

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