<帰国者リスト>
ベルリンの日本人はソ連と戦争をしていないから理論上はソ連の通過ビザさえ入手すれば、トルコを経由して日本に戻ることが出来た。しかしソ連は自国の交戦国ドイツから戻る日本人に通過ビザを出そうとしなかった。唯一例外は日本に救助されたソ連船員を送還してもらう代わりに、ソ連が日本人に発給することであった。
それは外交交渉となり外務省は帰国希望者の優先リストを作った。その数は1943年7月9日時点で71家族であった。しかしそこには友岡の名前はない。ベルリンン転勤直後であったためか、それとも「それでも日本には戻りたくない」という気持であったからであろうか?
一方友岡をポルトガルに招いた千葉公使夫妻は優先リスト22番目であった。千葉公使夫妻の望郷の念は非常に強いものがあった。ビザが出次第帰国しようと、パリからトルコに移り住んだ。
しかしその年の11月のビザ発給者に名前はなかった。帰国の夢がかなわず、いつからか神経も弱っていったようだ。そして先回りすると1945年5月ドイツが降伏すると、その年の7月26日トルコで夫婦は前途を悲観し公使は妻みよ子(北里柴三郎の三女)を射殺し、自分も自殺する。
ベルリンの日本人はソ連と戦争をしていないから理論上はソ連の通過ビザさえ入手すれば、トルコを経由して日本に戻ることが出来た。しかしソ連は自国の交戦国ドイツから戻る日本人に通過ビザを出そうとしなかった。唯一例外は日本に救助されたソ連船員を送還してもらう代わりに、ソ連が日本人に発給することであった。
それは外交交渉となり外務省は帰国希望者の優先リストを作った。その数は1943年7月9日時点で71家族であった。しかしそこには友岡の名前はない。ベルリンン転勤直後であったためか、それとも「それでも日本には戻りたくない」という気持であったからであろうか?
一方友岡をポルトガルに招いた千葉公使夫妻は優先リスト22番目であった。千葉公使夫妻の望郷の念は非常に強いものがあった。ビザが出次第帰国しようと、パリからトルコに移り住んだ。
しかしその年の11月のビザ発給者に名前はなかった。帰国の夢がかなわず、いつからか神経も弱っていったようだ。そして先回りすると1945年5月ドイツが降伏すると、その年の7月26日トルコで夫婦は前途を悲観し公使は妻みよ子(北里柴三郎の三女)を射殺し、自分も自殺する。
ピストル自殺であった。夫妻の自殺には異説もあるようだが、それにはもう少し新しい資料の発見が必要と筆者は考えている。

千葉夫妻、ベルリン海軍武官邸で横井忠雄海軍武官(正面)と。時期不明だが1943年10月以前。(阿部 信彦さん提供)
<手紙 2>
先述の1944年4月12日付の手紙は妻恒子に宛てたものだ。この年はドイツの劣勢は明らかで、ソ連もほとんど通過ビザを出さなくなっていた。友岡の手紙を運んだのはこの時帰国できた満州国公使館関係者か?そしてこの手紙にはいくつか興味深いことが書かれている。
「小生は相変わらず元気に大使館に通っている。もっとも家の方は1月30日の爆撃で相当の被害を蒙り、わずかに寝室及び台所が使えるので(そこで)頑張っている」と家に被害があったことを伝え、
「大使館にも、陸海軍にも友人、知人があるので、万一の場合も心配はない」と軍人とも交流があることを書いている。その例が先の伏下中佐、内田一等書記官であろう。そして
「最近日本からくる新聞や雑誌には殆ど小生の友人の名前を見ず、淋しい感じであるが、その人たちはどうしているだろうか?」と、先の昭和研究会の友人は為政者から快く思われていない人が多く、それが為に身を案じたのであろうか。また
「こちらでも朝日の笠君がスイスに移ってからは打ち明けて話す友人がなく困るが、これも戦争では当然であろう。」と朝日新聞の笠信太郎が唯一の心を打ち明けて話せる友であったことが分かる。彼と話した内容は、戦争の行く末に対する悲観論であったことが想像できる。なお笠はスイスに移るに際し友岡に「一緒に行かないか?」と誘ったが友岡は「自分は外務省の仕事があるので」と断ったという。(眞子さん談)
ほかにも「新聞が比較的順調に来るので、日本のことも遅れながら分かっている。」とひどい月後れではありながらも日本の新聞が届いたことが分かる。さらには「この頃は自動車の運転を習っている」と書く。そして車の運転は後に役立つ。
<ベルリンの笠信太郎>
ベルリン日本人駐在員の中に、組織だった反枢軸的グループが存在した記録はない。日本人社会においてもそうした思想はおおっぴらに言える環境ではなかった。個人的な考えとして持っていた人がいたくらいである。その筆頭が、すでに紹介した笠信太郎である。
笠の欧州滞在は一年間の予定であったが、戦争の勃発で帰国の道が閉ざされ、そのままベルリンの朝日の事務所を手伝う。ベルリン駐在中は、新聞の仕事は専ら特派員である守山義雄に任せ、自分は欧州各国を精力的に見てまわった。
反枢軸と言われた笠は、終戦間際にスイスから日本に向けて打電した和平勧告で有名であるが、ベルリンでは公に反枢軸的発言はしていない。回想録などに残された限りでは、当時留学生であった篠原正瑛が次のように書いている位だ。
「笠氏は、中途半端な時間なのであまり客のいない(日本食レストラン)“あけぼの”のテーブルの一隅に腰かけて、洋酒らしいものをちびりちびりと飲んでいた。私は、たまたま居合わせた友人の紹介で笠氏と同じテーブルにすわって、簡単な話をした。
私が笠氏に向かって“枢軸側はかつでしょうか?”とぶしつけな質問をしたところ、ただ一言“負けるね“という冷ややかな答えが返ってきたことだけは、今でもはっきりと覚えている。」

レストラン あけぼの
またブダペストの笹本駿二朝日新聞特派員は、ベルリンから重鎮である笠が出張で同地を訪れると、
「二ヶ月も続けてドイツにいると、へどが出そうなくらい気分が悪くなるが、こうしてドイツを出たとたんに気分がそう快になるんだから不思議だね、なんて開口一番、漏らした」と回想している。
またブダペストの笹本駿二朝日新聞特派員は、ベルリンから重鎮である笠が出張で同地を訪れると、
「二ヶ月も続けてドイツにいると、へどが出そうなくらい気分が悪くなるが、こうしてドイツを出たとたんに気分がそう快になるんだから不思議だね、なんて開口一番、漏らした」と回想している。
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