<手紙 1>
友岡がベルリンから日本の家族に出した手紙が二通残っている。当時手紙はスイスのような中立国で投函すると、ソ連を経由して着くこともあったようであるが、全く信頼をおけない。よって潜水艦で帰る人、もしくは数少ないがソ連の通過ビザを得てトルコから帰国する邦人が、トランクに入れて運ぶのが、最も確実な方法であった。
友岡がベルリンから日本の家族に出した手紙が二通残っている。当時手紙はスイスのような中立国で投函すると、ソ連を経由して着くこともあったようであるが、全く信頼をおけない。よって潜水艦で帰る人、もしくは数少ないがソ連の通過ビザを得てトルコから帰国する邦人が、トランクに入れて運ぶのが、最も確実な方法であった。

友岡の送った手紙の封筒。日本大使館ベルリンの名前が入っている。個人が運んだので切手は貼られていない。
友岡は「伏下氏に託した手紙は届いたであろうか?」と1944年4月12日付けの手紙の冒頭に書いている。伏下氏とは伏下哲夫海軍主計中佐のことである。文面から推測すると伏下は友岡の住まいを訪れたようだ。彼も経済を専門としたので、交流があったのであろう。
そして伏下は1943年10月5日、フランスロリアン軍港からイ号第八潜水艦で日本に向かい、無事日本にたどり着いた。戦争中を通じて唯一無事に日本まで戻った潜水艦であった。彼の運んだ手紙は、おのおのの駐在員の日本の家族の元に届けられた。
そして眞子さんには小さな小包が届いた。中身はアーガイル柄(格子模様の一種)の膝までの純毛のソックスであった。補修用のウールの毛糸まで付いていて、子供心にも感心した。日本ではウールの靴下などどこも手に入らない時代、同じ戦時下においてもドイツとの国力の違いを感じた。
友岡は「伏下氏に託した手紙は届いたであろうか?」と1944年4月12日付けの手紙の冒頭に書いている。伏下氏とは伏下哲夫海軍主計中佐のことである。文面から推測すると伏下は友岡の住まいを訪れたようだ。彼も経済を専門としたので、交流があったのであろう。
そして伏下は1943年10月5日、フランスロリアン軍港からイ号第八潜水艦で日本に向かい、無事日本にたどり着いた。戦争中を通じて唯一無事に日本まで戻った潜水艦であった。彼の運んだ手紙は、おのおのの駐在員の日本の家族の元に届けられた。
そして眞子さんには小さな小包が届いた。中身はアーガイル柄(格子模様の一種)の膝までの純毛のソックスであった。補修用のウールの毛糸まで付いていて、子供心にも感心した。日本ではウールの靴下などどこも手に入らない時代、同じ戦時下においてもドイツとの国力の違いを感じた。
潜水艦で帰国する人は荷物が限られ、かつ日本の戦争遂行に必要な書類も多く持ち帰ればならなかった。手紙を託した人は多くいたが、おそらく無理を言って子供のために小さな小包を託したのは、友岡の子供を想う気持ちの表れであろう。
残る一つの手紙は1943年11月7日付けで娘の真子に宛てたものである。(これは日付から伏下が運んだとは考えられない。)この3日後の11月10日、ソ連の通過ビザを得て日本に帰ることのできた数少ない一行がベルリンを出発した。
残る一つの手紙は1943年11月7日付けで娘の真子に宛てたものである。(これは日付から伏下が運んだとは考えられない。)この3日後の11月10日、ソ連の通過ビザを得て日本に帰ることのできた数少ない一行がベルリンを出発した。
大使館からは牛場信彦一等書記官(後の駐米大使)がビザを得た。友岡は手紙を牛場に託したのであろうか。帰国者は残る者の日本の家族らに宛てた手紙を持ち帰り、それはトランクひとつにもなったという。日本に帰るという特権を得た者が、残る者に対して、唯一出来る好意であった。
友岡は子供に宛てて丁寧な文字で
「周囲の家はこの3月以来の英米側の爆撃のために、散々破壊されておりますが、(自分の)お家は未だ、少しも損害はありません」と
友岡は子供に宛てて丁寧な文字で
「周囲の家はこの3月以来の英米側の爆撃のために、散々破壊されておりますが、(自分の)お家は未だ、少しも損害はありません」と
ベルリンでの空襲が激しいことを書き、「日本にもまたアメリカの飛行機が来るかもしれないので、落ち着いて行動するように」と近い将来、日本への空襲を予測し告げた。さらに
「戦争は今までの世界の歴史にない大戦で、日本の何倍かの力を持った米国、英国と戦って勝たねばならぬのですから、皆お国のために今迄より何倍かの勉強をしなければなりません。」と娘にしっかり勉強するようにと励ました。
「戦争は今までの世界の歴史にない大戦で、日本の何倍かの力を持った米国、英国と戦って勝たねばならぬのですから、皆お国のために今迄より何倍かの勉強をしなければなりません。」と娘にしっかり勉強するようにと励ました。
日本での検閲の可能性のある手紙だから、反枢軸的なことは書けないが、友岡は米英と日本との国力の差はしっかり認識していたことが分かる。

ベルリンにて。本の揃った立派な部屋は自宅ではなく、大使館内?
(ベルリンの日本大使館には2万5千冊の蔵書を持つ図書館があり、戦後連合国に接収されたという。)

1944年4月 ベルリン住居。内田藤雄一等書記官撮影 内田書記官は大使館において親独派の代表格であった。
<眞子さんの記憶から>
友岡の欧風滞在について、亡くなった母親恒子さんから聞かされたことがいくつかある。その一つが「ドイツに来た日本陸軍の軍人がフランス、ノルマンデイーのドイツ軍防衛施設を見学した際、父は同行しているようです。」という話である。
これに相当しそうなのは次の史実である。「ドイツ有利」という大島大使の情報にあまり信用が出来なくなった日本側では、遣欧調査団を送ることを決めた。外務省、陸軍、海軍のメンバーからなり1943年4月にドイツに入った。
そしてドイツの戦線を見て回ったが8月11日には、「対英海峡築城視察」として、連合国の大陸反攻を迎え撃つことが想定されるドーバー海峡に面した海岸線を視察している。残された写真には岡本清福少将他多くの陸軍軍人に小野田捨次朗海軍大佐、与謝野秀書記官などが写っている。そこにドイツ大使館から友岡も実際に加わったのかは確認できてはいない。
さらに恒子は眞子さんに「防衛施設を見た軍人たちは非常に感心したそうです。しかし父は攻める方(米英)からすれば、必ず弱点はあるはずだ。日本の軍人はダメだ。」という意味のことを戦後語った。
さらに恒子は眞子さんに「防衛施設を見た軍人たちは非常に感心したそうです。しかし父は攻める方(米英)からすれば、必ず弱点はあるはずだ。日本の軍人はダメだ。」という意味のことを戦後語った。
第四部以上