<リスボン>

1941年当時、ドイツと英国は交戦状態で、フランスは実質ドイツに占領されていた。中立国ポルトガルとまだ参戦していないアメリカの間には、ポルトガル船の他、米国船が一週間に一便運行され、クリッパー機(飛行艇)が週二回飛んでいた。首都リスボンは実質最後の北米への脱出口であった。

1月10日、その頃のリスボンの様子を、朝日新聞のフランス特派員であった伊藤昇が報告している。(伊藤はおそらくリスボンも兼務)
「リスボンの街にはドイツを筆頭に欧州諸国を追われたユダヤ人が流れ込み、その数は5万人に上った。彼らがホテル、下宿までを占領していて、ホテルを探すことは非常に困難である。

(1940年)秋に記者自身(伊藤のこと)が赴任する際に、アメリカからリスボンに着いた船は50人足らずの船客であったが、帰りは300人位を詰め込んだ。」欧州からの避難希望者があふれる一方で、アメリカから欧州に来る人は限られていた。

今日リスボンの人口は約100万人であるが、当時は65万人位であった。5万人の難民というのはいかに多いかが想像つく。街は異様に活気づいていた。アメリカ行きの船に300人詰め込んでも5万人の希望者に対しては、全く微々たる輸送能力であった。避難民の急増を恐れるアメリカも、あえて欧州との輸送力を強化しようとしなかったのであろう。

千葉公使一行のリスボン到着は3月26日であった。千葉は到着後間もない4月5日、全欧大公使会議に出席するため、ベルリンを訪問する。
 


<語学研修>

リスボンに着いた友岡は、ホテル住まいを経て下宿に移り住んだが、1か月ほどしてリスボンから北に200キロほどの街コインブラの大学に行くことを決め、入ったばかりの下宿を出払い、公使館の三階に移り住んだ。
 
家族に送られた絵葉書には「ポルトガル語の勉強の為」と書かれているが、大学で短期語学研修をするのは不自然でもある。友岡は法政大学関係者に「留学に行く」と言ったのも、このコインブラ大学に行くことが当初から予定されていたからであろう、と眞子さんは考える。

5月3日、友岡はコインブラに移り住む。1か月の予定であったが、結局3か月の滞在となる。長女真子さんにコインブラから書き送った絵葉書が残っている。
 
 「この月(7月)の31日にここを発って、リスボンに戻ります。約3か月ここで暮らしたのですが、わずか3か月でも住んでいると、もうこの土地が離れがたい気持ちがします。」とこの小都市が気に入った様子が分かる。
 
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コインブラより送られた絵葉書の表。

ポルトガル語習熟の為の滞在期間延長かは不明であるが、その間7月25日にはアメリカは在米日本資産の凍結をおこなう。日米間の緊張は極度に高まった。戻った公使館では、さっそく沢山の仕事が友岡を待ち構えていたことであろう。
 


<ポルトガル公使館の強化>

1941年12月8日、日本が米英に対し参戦すると、早速欧州の大公使館に対し、東郷茂徳外務大臣名で敵国の情報収集機能の強化が指令された。同年12月17日、千葉公使は東郷外務大臣宛てて書き送る

「当館情報関係事務は直ちに実行できることを主眼として、次のごとく編成し、12日より実施している。

1 情報の蒐集及び電報(「リスボン」情報)発送には友岡嘱託を充て、当地「ラゴス」貿易斡旋所(JETROの前身のようなもの)所長、上村及びタイピスト1名を助手とするけれども、正式の助手としてはベルリン在住邦人を1,2名物色中なり。
(上村はポルトガル領であったナイジェリアの首都ラゴスからリスボンに引き揚げたのであろう。)

2 (英国の)BBC及び米国その他のラジオの聴取には「ラゴス」斡旋所員成田を充てる。

3 諜報網、宣伝謀略及び特殊連絡等は独伊の施設(通信施設のこと?)の利用を従来とも多少試みおり。(中略)差支えなき限り、これを利用するのを第一義とし、右機関との連絡は本使(千葉公使)及び上野にて当たり。上野も手不足にて、、、在ドイツ、イタリア邦人中より適任者を得たい。」

ここで英米情報収集の主担当が友岡であったことが分かる。また3番目のスパイ網に関して、日本は独自に作らないで、同盟国のものを利用すべきと千葉公使は進言した。理性的な判断であろう。

そして物色中であった助手としてベルリンからサポートの来た人物の一人は日本郵船のベルリン駐在員、菊池庄次郎(のちの社長)であった。日経新聞の「私の履歴書」で次のように書いている。

「(1940年)11月に大阪商船の津山重美と一緒にスペイン、ポルトガルへ視察旅行に出かけた。中立国の港リスボンでドイツでは配給制で不自由していたアルコールやタバコを買い込むのも目的の一つだった。日米開戦のニュースを知ったのはこのリスボン滞在の折だった。(中略)

戦争らしいと公使館に駆けつけ、千葉公使に事実関係をうかがった。その席上、日本の戦時経済の脆弱性について私見を述べたのだが、公使には気に入られたらしく、程なくポルトガル公使館勤務の辞令が、外務省から届いた。結局、年が明けてから4か月間、リスボンで暮らすことになった。

リスボンには英国の新聞がその日のうちに空輸されてくるので、日本で関心のありそうな記事を要約して伝達するのが仕事であった。」
友岡は菊池らのこうした仕事を統括したのであろう。

さらには翌1942年1月11日、千葉公使は「情報企画に関する件」として
「(複雑な情報を)隠語通信により(本国に)報告することはすこぶる困難。また当国の電信および電話は何れも英国人の掌中にあり。郵便もすべて英国側の検閲を受ける。隠語は勿論、“隠しインキ”による通信も実用的にあらず。」

と本国への機密情報伝達の困難を伝えている。英国は自国の安全のため、ポルトガルの中立を尊重しなかったようだ。そして千葉公使は暗号通信、スパイ映画のような特殊インクによる通信などにも言及している。戦時色がだいぶ感じられる電報であるが、本国の指令に従わない印象も受ける内容だ。

3月19日、伊藤特派員が再び朝日新聞に「中立の花園を荒らす間諜500人の暗躍」の見出しで書いている。
中立国ポルトガルには英国の情報関係者が500人も入り込み、300人が英国大使館内に勤務していると。500人というのはこうした記事特有の誇張と思われるが、中立国ポルトガルを舞台に、戦争中は英国に留まらず、独伊などのスパイが多く活躍したことは事実であろう。

伊藤はさらにリスボンでは、フランス、スペインと異なりパンが白いと書く。小麦が十分にあるということであろう。さらにバターがまだあると驚いている。占領下のフランスより食糧事情はだいぶ良かった。
 
第二部以上