<序>

横浜日独協会理事の磯貝喜兵衛さんと最近知り合いになったが、磯貝さんの奥様眞子(しんこ)さんのお父様、友岡久雄さん(以下敬称略)は戦時中ドイツに駐在していたことを聞いた。そしてわずかに残る当時の写真と、日本に残る家族に書き送った手紙のコピーをいただいた。

写真の1枚が下の日本郵船北米航路、浅間丸の一等船客の記念写真であった。航海途上の1941年2月末ないしは3月上旬の撮影である。同じ時期、欧州航路に就航している船では船上デッキでの記念撮影であったが、浅間丸の場合は船内で撮られており、その内装の豪華さに筆者は驚いた。

そんな華やかさについて感想を述べると、友岡の欧州(ポルトガル)への赴任は、実は官憲の追及を逃れるためであったようだと教えていただいた。とすれば友岡は体制に批判的であった駐在員としてどのような生活を送ったのであろうか?

友岡氏自身の回想などが残されていないので詳しくは分からない部分も多いが、筆者は数少ない資料から、彼の活動を探ってみた。また戦時下のリスボンの邦人状況について紹介するのは、筆者にとっては初めてのことである。
 
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浅間丸一等船客記念写真、船長の左の男女が千葉公使夫妻、中列右から二人目が友岡。朝日新聞ローマ特派員として赴任する衣奈多喜男もいるはず。写っている外国人はおそらく大部分が上海を経由してアメリカ大陸に避難するユダヤ人である。
 
<友岡久雄教授>
 
1899年11月14日に福岡県に生まれた友岡は、熊本の旧制第五高等学校(熊本大学の前身)から東京大学法学部政治学科を卒業後、引き続き大学院で経済学を専攻、1925年に招かれ法政大学経済学部講師となり、1927年教授に就任した。

そして1930年代後半は、毎月のように中央公論、改造などの雑誌に記事を書いていた。それら記事の中には「ヨーロッパ戦争と小中立国」(国際経済研究、1940年4月)、「英国の戦時下金融政策解剖」(国際経済研究、同8月)などがあり、ポルトガル赴任の理由を納得させるものがある。

東京大学時代から社会主義思想家のグループ(東大新人会)に属する友岡であったが、母一人子一人の環境の中、母親を困らせたくないとの思いからか、考えは徐々に穏健になってはいた。それでも官憲の取り締まり強化の中で、捜査の手が友岡にも及んできたという。そんな友岡をポルトガル日本公使館付き嘱託として逃がしてくれたのが、同国公使として赴任が決まった千葉蓁一(ちばしんいち)公使であった。

そして外務省の嘱託としての赴任が外務省通商2課長より認可されたのは2月10日で、書類が外交史料館に残っている。

「欧州戦乱の推移の現状においてイベリア半島の中立2国(スペイン、ポルトガルのこと)は重要度を増し、しかもリスボンという良港を擁するポルトガルは交通の要衝である。」で始まり
「ポルトガル公使館に嘱託1名を配属し南欧諸国の経済、並びに我が国の対ポルトガル通商の帰趨を調査報告させるため、現法政大学の友岡久雄教授を派遣する。」と言うことが書かれている。

こうして表向きの辞令は出た。42歳になる友岡は経済学者として脂の乗ったころであったが、海外に赴くには若くはなかった。まして家族を残して単身での赴任ということで、内心は決して晴れやかなものではなかったはずだ。


<欧州へ>

2月20日、横浜から先に紹介した浅間丸でアメリカ西岸に向かう。親族の他親戚、多くの教え子が港に集まった。出港時には学生たちが「フレー、フレー友岡!」と叫んだ。眞子さんの記憶によれば、法政の関係者は皆、友岡が外務省の嘱託としてではなく、留学に出ると考えていた。「父は、学校には留学へ行くと伝えたのであろうか?」と眞子はいぶかしがった。

欧州では戦争が始まってすでに2年が経過していた。アジアを経由し、スエズ運河を通過する日本郵船の欧州航路はすでに休止となり、太平洋航路をとってアメリカ西海岸に向かい、大陸を列車で横断し、さらに大西洋を渡っての赴任となった。外務省に残る記録では大西洋は「エクス・カリバー号」乗船の予定となっている。

そして友岡の乗船した浅間丸は、「太平洋の女王」と呼ばれる日本郵船が誇る豪華船であったが、前年1月にはホノルルから横浜に向けての航行中、千葉県房総半島沖で英国軽巡洋艦の臨検を受け、21名のドイツ人乗客が戦時捕虜の名目で連れ去られた。日本の目と鼻の先での出来事で、日本人には屈辱と映り、浅間丸事件と呼ばれた。
 
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日本郵船の恒例のすき焼きパーティー。手前の食器類はなかなか豪華。船長を囲んで千葉公使夫妻と友岡(左)
 
笠信太郎>

友岡と同じような理由から、家族を残して欧州に向かった人物に、朝日新聞社の笠信太郎がいた。1900年生まれの笠は友岡より一つ若いだけの同世代である。笠は中国視察後に書いた記事がもとで、日本の警察ににらまれるようになった。朝日新聞社主筆の緒方竹虎の計らいで欧州出張の名目で日本を脱出し、ドイツに向かったという。

日欧間の行き来もままならない時代、欧州は日本官憲からの数少ない逃げ場となった。友岡の留守宅にはその後も「先生は本当に国外に行かれたのですか?」と特高が来て尋ねたという。

法政大学教授の友岡と笠、さらに先にポルトガルに嘱託として友岡を連れて行った千葉公使3名の接点は、近衛文麿の私的ブレーンである昭和研究会であった。会には多くの進歩的思想の知識人が加入した。ゾルゲ事件で逮捕された尾崎秀実もメンバーであった。そしてその分科会の一つ「東亜ブロック経済研究会」に3名の名前が連なっているのを見つけたのは、友岡の長女眞子さんである。

笠は友岡より5か月前の1940年9月、太平洋を日本郵船鎌倉丸で横断し、大西洋をやはりエクス・カリバー号で渡るが、途中で入港した英領バミューダ島では、英国官憲の厳しい取り調べを受け、所持金、所持品を没収された。この問題は後には日英間の外交問題にも発展した。

日本人が欧州に渡るのはこんなに苦労をする時代となっていた。笠の直後に向かった友岡の大西洋の航海も、同様に物々しいものであったろう。そして同じような境遇の友岡と笠は欧州においても気が合ったが、その話はのちに紹介する。
 
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戦後の笠信太郎(左)と友岡 (戦後も付き合いは続いた)
 
第一部以上
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