<高木惣吉関係文書>
      
先にも紹介した高木少将は一九四四年九月、米内海相から「極秘のうちに戦争の後始末の研究をするよう」命じられた異色の経歴を持つ。かれは終戦でも、関係する文書を焼却しなかった。それが今日「高木惣吉関係文書」として公開されている。

 

藤村についての記録も含まれている。同文書は終戦関係の研究者の間では知られており、幾度と引用されているが、スイスの和平工作に関連して用いられた事はない。
 
これまで紹介してきた日本側当事者のコメントは、いずれも戦後になってのものであった。しかし以下の高木の注釈は、まさに藤村の電報が到着した当時に、書かれたものである。

 
一九四五年五月十二日に「在スイス武官からの報告」として
「在瑞西アメリカ陸武レー中将が、親友に洩らすところ
一.武官庁官憲は九日頃、日本はソ連を通じ、アメリカ、イギリスとの和平工作開始せるものと信じあり
 
二.レー中将が個人的に承知しあるかぎりにては、日本人に対する戦争責任者名簿は臣下に限定されありと。又欧州における戦争責任者総計は二千人程度にして、各責任者は被害国家に引き渡さるべしと。
当地には米大統領特別使節たる”ダラー”が活動しつつあり」と書き記されている。
 
髙木の書き記した内容の電報は、アメリカの解読電には無い。漏れているものがあることを証明すると同時に、藤村の活動について多くのことを明らかにしてくれる。

スイス武官はいうまでも無く藤村を指している。高木が五月十二日と書いていることは、当時の電報事情からすると八日頃の発電は大いにありうる。
 
つまり「ダラー」ことダレスの活動を初めて報告したこの電報を、戦後藤村は第一電の日としたのではなかろうか?第一電の日付は、早ければ早いほど、藤村の先見性を際立たせることになるからだ。しかし言うまでもなく、これは単なる情報であり、和平勧告ではない。

 

同時に日本がソ連を介して和平をするという、スイス国内での噂が紹介されている。先にも紹介したように同国ではすでに、この話が広まっていた。欧米のマスコミもそうした予想を書き、藤村の眼にも止っていた。


よって冒頭本橋教授の「藤村電報の日にちは繰り上がっている」という仮定は正しかったものの、知るはずがない事実であるという根拠は、的を外れていた。スイスでは既成事実に近かった。
 
そして藤村の和平勧告第一電は、これまで日本には存在しないとされてきた。それ故に今日まで藤村らの回想が、そのまま受け入れられたのだ。筆者はこれを長年捜し求めて来た。ところが当時電報に目を通した高木が、内容を記録に残していた。確かに原文ではない。しかし出会ったときは手前味噌ながら、まさに意志のあるところに道があるという印象であった。以下の文面を読んで、例のマジック電に戻ると、彼等の暗号解読レベルの高さを再認識させる事にもなる。

 

在瑞西武官電報要旨  二十ー六ー七(二十年六月七日
桑港会談失敗

一.トルーマン、ステチニアスの人気下がる。米は表面、無条件降伏を叫びつつも、内心は速やかに対日戦終了を焦る


二.米は対日戦に英の協力を好まず。又蘇の参戦を好まず。漁夫の利を与えることとなる。東亜の赤化を誘発助長す。
ヤルタ会談にて対日戦が七月下旬迄終了せざるときは蘇は対日行動開始を提案。ルーズベルトは対ソ協調政策上同意

三.欧州は共産主義扶植温床化し、蘇の赤化工作進展す。(以下略)
そして海軍の責任者であった、米内光政海軍大臣の藤村電に対する反応も、大きな謎として筆者に残っていた。間接的なものばかりである。

幾人かの話を綜合すると、米内は和平を考えていたが、それは自分らの仕事であり、部下のやる事ではないと考えていたようだ。
 
そこからも保科軍務局長が述べる「私はこの電報を米内海相に持って行って御目にかけたが、海相も嬉しそうであった」というのは疑わしい。米内は、藤村の電報に対しても同様の反応を示し、一件を部下から取り上げ、外務省に回しているのである。

 

ところが高木は藤村電の内容を記録した末尾に「米内大臣の考え」として
一.黙殺、
二.謀略的申し入れの疑いあり、
三.かれに対するワシントンの返事を待って様子を見ても遅くなし

と短いながらも書き残している。確かに藤村の進言は米内海軍大臣の耳にも届き、感想も発せられたのだ。しかし文面にあるように頼りの大臣の反応は他の幹部同様かなり懐疑的、そして及び腰であった。

 


<日本の対応>
       
スイスからの熱心な働きかけに対し、日本からは
「六月二十二日にいたり、大臣の名において武官宛軍機親展電報として”貴趣旨はよく分った。一件書類は外務大臣の方へ廻したから、貴官は所在の公使その他と緊密に提携し善処されたし」
と電報が入り、藤村を大いに落胆させる。(文春より)
 
藤村工作が、いよいよ最終段階に入ってからの経緯は、例外的に日本の外交史料館に残されたいくつかの電文からも、正確に捉えることが出来る。和平関係の文書は連合国が進駐してくる前に焼却する必要ない、と判断したからであろう。

 

海軍省から話が回ってきた直後、七月二十三日の東郷外相発加瀬駐スイス公使宛電は

「一.最近貴地海軍武官より”ルーズベルト”の在欧州特使Dullesなる者より、確実なる第三者を介して、同武官に対し”日本側に於いて米国と絶対秘密裡に話し合うの意向あらば華府政府に伝達すべく、東京より海軍高官を瑞西に派遣の意向あらば、飛行機その他の準備を引き受ける旨申出たる趣を以って措置振を請訓越せる処、海軍中央に於いては当方と連絡の上

 

”敵の謀略及離間工作頻りに行われ且、主目標を帝国海軍に置きあるやに認めらるるに鑑み、中央としては本件は取上げざる意向なるが、この種工作に対しては所在帝国官憲と密接連絡し周到に観察すべし”との趣旨の回訓を発せると共に、本件処理を外務省に一任し来れり。

二.ついては委細貴地海軍武官より御聴取相成度(海軍側より更めて同武官に訓電を発すべし)(中略)

本件相手方を通じ米国当局の和平問題に関する真意を探り得るや、に関する貴見等至急御回電相成度」と終戦間際にもかかわらず、長文の訓電となっている。

 

しかし当時の慌てた状況を反映してか、記述があまり正確ではない。冒頭貴地海軍武官よりと書いてあり、正式な海軍顧問という称号が使われていない。

 

アメリカ側が電報の発信人が「西原本人かどうか不明」と判断していたのに対し、外務省ではスイスから海軍大臣に宛てた電文の内容を、吟味した跡もない。発信人の西原が送ったものと考えている。

 

そして古びたこの電報のオリジナル原稿をよく見ると、欄外に手書きで「発電前海軍見せ」「海軍より先ず藤村武官に対し有島大佐より発電済みなる由電話あり」と書き込まれている。海軍の発電を確認した後、これが送られたことが分かる。七月二十三日のことで、海軍のは一日前の二十二日であった

 

また文末に「本件相手方を通じ米国当局の和平問題に関する真意を探り得るや」と外務省は、このルートを通じて、いくらかでもアメリカの和平に関する真意を探ろうとした未練が感じられる。

 

七月三十一日、それを受けた加瀬公使は返電を打つ。終戦近くなると通信事情の悪さで、スイスと東京の間では到着まで五、六日かかるようになっていた。であるから実際は、スイスからは折返し返事が送られたといえる。

 

「本件海軍武官及補佐官より聴取せるが(当地には正式に海軍武官なく当館海軍顧問なるが、藤村補佐官著任後、同人の性格上並びに西原武官が技術官なる関係より、種々問題を惹起し居れり)”イニシアチブ”が米国側より申しでたるものとは見とめ難きに付、黙殺せらること然るべしと存す。

 

尚”ダラス”の人物に付いては往電第七九九号にて御承知の通り、又確実なる第三者とは予ねて防共協定当時日独の間に連絡係たりし独人”ハック”にして従来当地に於いて海軍側の使用し居りたる経緯あり、本件は同人が”ダラス”の秘書と友人なる関係を利用せるものと認めらる」

 

海軍武官とは西原のことであり、補佐官が藤村のことを指している。藤村のスイス入り以来、海軍関係者の間では、関係がぎくしゃくしだした。加瀬公使はその原因として、藤村の性格に言及している。実際藤村はスイス入りしてから、武官として振舞っていたようだ。七月十七日に藤村は東京に宛てて

 

「一六四号 貴電三七七号 軍務局長宛て アルミ溶接の製造件の購入の合意の後、主に西原大佐を実際の製造の訓練や技術的問題に当たらせている。もし何か調査を希望するのであれば、事前に自分に連絡を」と西原を自分の部下とするような報告をしている。(解読電)

 

手柄を一人占めにしたがる性格といわれる藤村と、元々技術者である西原の角逐は想像できる。戦後になって、同期の角田求士が「藤村君と私」と題し


「藤村に和平工作失敗の遠因は、君の性格にもあるのではないかと話した。藤村君もその点は、気付いていたようである」と書いている。
 
しかし日本への発電権は、上官である西原が握っている。そこで西原の名前を使って、こっそりと発信したのも、藤村らしい解決策であった。よって日本への和平の電報は、一部を除き西原は目を通していないはずである。

 

さて事情を聞く加瀬公使に向かって、藤村は本当の事を言わなかった。「提案がダレスの方から来た」と聞くと、公使は気分を害した。それが東京に対する、黙殺すべしという先の報告となった。

 

付けをさかのぼると、七月二十一日の加瀬公使の親展電報も外交資料館に残っている。内容は同じくスイスの岡本清福陸軍武官による和平工作の報告であった。陸軍武官も個人として動いていた。加瀬公使は岡本ルートに関しては、海軍のとは対照的に

 

「現下慥かに一のよき筋と認められる」と高く評価した。職業外交官の眼には、陸軍ルートの方が、信頼がおけると映った。単純に、事前に相談を受けたという理由から、支持をしたのかもしれない。


わずかばかりの邦人の滞在するスイスでは、二つのルートが終戦直前に、あたかも先を競うように和平の道を探っていた。
 
八月十日、ベルンの公使館に、ポツダム宣言の受け入れを伝える日本からの訓令が届く。加瀬公使はその日のうちに、スイスの外務省を訪問し、日本の降伏の意思を連合国に伝えるよう依頼した。

 

それにもかかわらず藤村は、まだダレスを通じて何か出来ないかと考えていた。翌十一日に

「一九五号 次長次官宛て 
一 我々の観察ではロシアと中国は日本の(和平のー筆者)提案に同意しないであろう。そして多くの交渉が続けられるであろう。


二 ロシアの介入で中国だけの影響の時とは情勢が異なる。また依然米英の対日態度は大きな影響を持つ。日本はそれらの国家連合に対して、特に厳しい立場にある。 
 
三 中立国に滞在する我々最後の務めとして、中央の政策に基づき、過去の特別の連絡路を使い,帝国の希望の成就に努めたい。」
過去の特別の連絡路が何をさしているかは,明らかだ。
 
加瀬公使からポツダム宣言受諾について詳しい説明を受けなかったのか,藤村は十二日になっても、やや的外れな情報を送っている。
 
「一九四号 次長次官宛て 
当地のいくつかの情報筋に拠れば以下の通りである。
一 日本は十一日夜に送られたアメリカの提案を受け入れたというのが一般的意見である 
二 和平交渉は沖縄で行われる。 
五 スイス銀行の口座は十日正午に凍結された。 
六 秘密書類、暗号類は処分を完了」
 
公使館では終戦を待たずに十四日、暗号書と秘密文書を焼却する。一方藤村の方では十五日
「二○○号 軍務局長、第三部長、通信課長宛て 所持している暗号書は以下の通り。他は焼却済み」と報告する。ただし以下の部分は今もアメリカによって覆われていて見る事が出来ない。
 
その時藤村は本人の回想によれば、和平勧告電に使用した暗号機を、アルプスの麓のトゥーン湖の湖底に沈めたという。
翌年一月、欧州中立国に滞在する日本人を帰国させるために船が仕立てられ、失意の藤村もそれに乗り、三月末に横浜にもどった。

 

 



<藤村工作とは>
       
日本海軍に戦時中でありながら、本国に和平を具申した将校がいたことは、賞賛され、後世に残されるべき出来事であった。そして藤村自身の積極的行動には、特筆すべきものがあった。

 

ただし日本に書き送った電報の内容については、これまで見てきたように、当初から事実を逸脱した藤村の創作が入り込んでいた。ワシントンはダレスに藤村と交渉に入る事を承認したとか、大臣もしくは大使級をスイスに送れという話は、藤村の作り話である。

 

これを藤村は戦後も公表するが、その際には自己の先見性を強調するため、工作の日時をほぼ一ヶ月早めた。こうした幾重かの要素が、スイスにおける和平工作の事実の究明を難しくした。

 

真の研究は遅れ、謎めいた秘話ものとして、歪んだ形で広く世間に知れ渡った。藤村の自己顕示欲の強さが、影響したといわざるをえない。

 

どうして藤村は事実を本国に報告しなかったのか?そして戦後は少しでもそれを正そうとしなかったのか?ダレス機関と間接的であれ、接触したという事実を持つだけに、筆者には残念でならない。

終わりに結果として、藤村に対してやや厳しすぎる本編となってしまった事は、関係者にお赦しを乞う。

      

終わり 

      
これを書いて以降に見つけた新事実などを「スイス和平工作の真実その後」にまとめました。是非こちらも立ちより下さい。

関連:「バッゲ駐日公使のスイス訪問
 



主な参考文献

回想関係
藤村義朗「痛恨!ダレス第一電」 文芸春秋一九五一年五月号
林茂ほか編「日本終戦史」読売新聞社  一九六七年
大森実「戦後秘史」講談社 一九七五年
読売新聞社編 「昭和史の天皇」一九六七年
「追憶  藤村義郎先生」私家版 一九九三年
西原市郎「戦時中の思い出」海軍機関学校三十二期入校記念会誌  一九七〇年
保科善四郎  「大東亜戦争秘史」
高木惣吉  「私観太平洋戦争」  一九六九年
豊田副武 「最後の帝国海軍」 一九五〇年
小島秀雄 「藤村義朗中佐の和平工作電はなぜ、無視されたのか」  水交 一九七六年
「高松宮日記」  一九九七年
「天羽英二日記」  非売品  日記刊行会
笠信太郎他「海外終戦秘話」自由  一九六三年
ウェスタン.トレーディング株式会社小史「二十年のあゆみ」 一九六八年

研究書関係
本橋正 「ダレス機関を通ずる和平工作」東京大学出版会  一九五八年
本橋正 「日米関係史研究」 学習院大学 一九八九年 
江藤淳監修 「終戦工作の記録」 講談社文庫一九八六年 
大木毅「藤村工作の起源に関する若干の工作」軍事史学  一九九五年

一次史料
高木惣吉関係文書  国会図書館憲政史料館蔵
Japanese Officials on World War ?  藤村義朗、富岡定俊、保科善四郎  国立国会図書館憲政史料館蔵

Magic Summary  国立国会図書館憲政史料館蔵

Translation Reports of Intercepted Japanese Naval Attache Messages, 1942-1946
米国公文書館蔵

終戦工作関係綴り  外交史料館蔵
在外公館附武官関係雑纂  外交史料館蔵

スイス公文書館文書
2001(D)3  Huzimura Yoshikazu
              Kase Shunichi
              Tokunaga Taro