<OSS電からの推察>
      
マジック電によれば、藤村は第一電ですでに、ダレス側から提案の提督クラスの派遣に触れている。しかし、この話は米国側の公文書には出てこない。常識的に考えても、勝利間近のアメリカが、そのような事を申し出るとは考えにくい。藤村は東京を説得するため、自ら創作しもしくはハックの助言を受け、打電した可能性が強い。

 

藤村は別の箇所で「ダレスは影響力が強く、必要とあれば、アメリカ軍は協力を惜しまない」と評価している。


「おそらくそんなダレスなら、日本からの要人の輸送に飛行機を手配することは容易である」と解釈し、先の提案を行ったものと思われる。この様に当時藤村は、かなり自分に都合よく事態を理解していた。
 
そして飛行機による提督派遣の話であるが、藤村は、文春以降は全く出さなくなる。本人が、荒唐無稽という印象を与えると判断したからであろうか? またOSS電は
「ダレス氏は、かれが絶えず接触しているスイス国に住むドイツ極東通から以下のように知らされました。 ベルン在住海軍代表藤村義一は過去二ヶ月間に即刻の敵対停止を訴える七通の長い電報を東京の彼の上司に送りました」と国務省に報告している。

 

痛恨ダレス電は藤村が書くように三十三、五通ではなく、計七通であることしている。これはこれまで見てきたマジックサマリーの本数とも、ほぼ一致する所である。藤村は確かにその間東京に、和平勧告電だけではなく全てをあわせると三十本くらいの電報を送っている。その数を語ったのかもしれない。
 
さらにOSS電は
「ダレス氏は、彼が絶えず接触しているスイスに住むドイツ極東通から、以下のように知らされました。(中略)藤村の上長は、日本海軍がもはや”単独に行動する”ことが出来ないことを返電してきて、藤村に対し
”東京からの命令なしにイニシャティヴをとってはならないが”最も価値ある接触”を維持するよう訓令しました」と七月二十二日付けの海軍大臣の電報を受けた後の、反応を書いている。
 
藤村は万事休すと、ほぼ訓令どおりに工作から手を引いた事が確認できる。ただし後半の「価値ある接触は続ける」というところは、マジック電で見た
「私は戦争の推移に関係なく、敵との間接的連絡を保つことは意義深いと考えます。この連絡路を通じ、捕虜の問題など話し合うことができます。」に相当しよう。これは東京から認められてはいない。
 

 



<ダレスの反応>
       
文春の末尾に藤村は書いている。
「話は余談になるかも知れぬが、後で機関関係者の非公式の話を綜合したところによると、当時は沖縄作戦の最中であり、アメリカとしても早急に血闘を中止せしむべく、即時停戦の協定が成立すれば、先に呈示した三条件も考慮された、、、」
 
アメリカ側も真剣に考えていたとする藤村であるが、もう一方の当事者であるダレスは、実際どのように考えていたのであろうか?読売新聞社は今から三十年ほど前、質問書をダレスに送って、返事をもらった。

 

「一九四五年に私が関係していた、対日和平工作の内容に関する質問書を同封した、あなたの丁重なお手紙をいただきました。

 

あなたの質問に全部お答えするには、私としても多重に資料を調べたりしなければなりませんが、他のさしせまっている仕事のため、そのことに時間をさくことができるかどうか疑問です。

 

最近、アメリカやイギリス、ドイツ、その他の国で出版された、そして日本語版も出版されるはずの私の本”ザ.シークレット.サレンダー”(秘密の降伏)の一番最後の章に、それらの和平工作について、簡単に触れているので、まずそれをご参照下さい」

 

ダレスの指摘する部分を見ると
「われわれがサンライズ作戦にとりかかっている間にも、この作戦についての噂が、スイスの日本代表部に達していた。一九四五年四月、沖縄の戦闘が絶頂に達していた時、ゲヴェールニッツ(ドイツ生まれのアメリカ人でダレスの部下)と私は、スイスの陸海軍代表、およびバーゼルの国際決済銀行の日本人から接触をうけた。

 
かれらは至急に和平を確立するために、サンライズ作戦のために確立されたワシントンとの秘密の連絡を、使用できるか打診してきたのであった。(サンライズ作戦とは、ルガノで行われた北イタリアのドイツ軍降伏交渉のこと。ー筆者)

 

私はワシントンに報告し、日本の言い分を聞く権限を与えられた。バーゼル銀行の有能なスウェーデン経済顧問ベル.ヤコブセンもこの話に加わり、ワシントンとベルンの間で活発な意見の交換がなされた。

 

一九四五年七月二十日、ワシントンからの指令のもとに、私はポツダム会議に出席し、そこで、私が東京との交渉で知り得たこと(日本は皇室を持続でき、日本国民に降伏のニュースが流された後、日本に規律と秩序を維持するために、基本的団体が維持できるならば降伏したいということ)をスチムソン陸軍長官に報告した。

 

このころには、イタリアの降伏のニュースと、それがどのようにもたらされたか、という話が広くジャーナリズムによって広められていた。その効果は伝染病のように広がった。不幸にして日本の場合は、われわれの方に時間がなくなっていた」

 

ダレスは終止素っ気無い書き方で、藤村に会ったどころか、名前すら出てこない。よってハックによる接触に対するダレスの反応を見ることは出来ない。

 

文中スエーデン人ベル.ヤコブセンと話し合う記述があるが、かれは藤村の代理ではなく、陸軍岡本中将の代理である。ダレスは陸軍の動きとも、混同している。

 

日付けに関して言えば藤村らの接触の時期は、五月でなく、沖縄戦の頂点の四月としている。ダレスは全体として荒っぽい書き方しかしていないが、これに藤村があわせた可能性はある。

 

ダレスはこの中で「日本側の言い分を聞く権限」を与えられていたと説明している。交渉のテーブルについたわけではない。交戦中の相手国人の話を聞くことを許されただけであった。これが藤村らスイス邦人の接触に対する、ダレスの基本的立場であった。藤村は常に自分に都合のよい、解釈をしていた。
 

 



<海軍の反応>
       
スイスから和平の勧告電を受け取った、日本の海軍関係者の反応はどうだったのであろうか?

 

保科善四郎海軍省軍務局長は一九五〇年一月十六日、GHQに対して陳述を行う。藤村へのインタビューより、九ヶ月前である。     
藤村は文春の中で

「その翌日の五月二十一日か二日に東京海軍省軍務局長から武官宛に親展で返事が来た。ところがそれによると“貴武官のダレス氏との交渉要旨はよく分かったが、どうも日本の陸海軍を離間しようとする敵側の謀略のように思える節があるから、充分に注意されたい”というのである」と書いているが、それは保科のことを指している。証言は以下のようだ。

 

「それは私が海軍省軍務局長に就任してから間もなくの頃であった。恐らく一九四五年六月初めの頃であったろう。軍務局第二課長末沢慶政大佐と同課員有馬高泰大佐とが、いかにも嬉しそうな面持で、一通の電報を私に届けに来た。

 

私はこの電報を米内海相に持って行って御目にかけたが、海相も嬉しそうであった。暫くして軍令部次長の大西滝治郎中将から、これは米国が、日本の陸軍と海軍とを離反するために、謀略として藤村に申し入れてきたものであると思われるから、これに応ずる事は反対であるとの意見が出た。

 

当時は尚、終戦を希望するような事を強硬に主張する事は、遠慮しなければならない状勢であった。それで大西の主張が勝ちを占めた。(中略)軍務局長の所見として、東郷外務大臣に移し外務大臣において、適当に処理して貰う事に致しました」

 

藤村の第一電の時期に関しては、六月上旬と正しく記憶している。しかし「米内海相も嬉しそうであった」となっているのは、疑問が残る。


また回想録として後に出版された同氏の「大東亜戦争秘史」には
「六月二十五日に海軍大臣室から回覧されてきて、私が受け取った電報の日付や内容について、藤村氏と私の話し合いによって、記憶に相当な食い違いはあるが、やはり私は私の”保科メモ”を固執せざるをえない結論に落ち着いた。」とある。日付けについて藤村との相違を認め正そうとしたが、藤村のほうがそれを避けたようだ。

 

次いで富岡定俊軍令部第一部長である。日時は同年二月十日、
「一九四五年五月から同六月にかけて、在瑞西日本大使館付海軍武官海軍中佐藤村義一氏から、米国代表ダレス氏と太平洋戦争の終戦について、交渉が合ったことを知っていますか?」と大井篤から、質問を受けた。それに対し富岡は知っていると答えた上で

 
「交渉を進める事を、上司に進言する決心をした。ところが私の直接の上司である軍令部次長大西滝治郎中将は、当時既に継戦一本槍の意気込甚だ強い事を、私は知っていた。
私から直接総長(豊田副武ー筆者)に進言しよう。総長は次の様に申された。
 
”君らは専ら作戦に心血を注いで居れば宜しい。和平の問題は、君が考えるべきではない”それ以来この問題には、一切干与しない事にした」と、好意的に藤村電を捉えたが、総長の一言は影響が大きかった。

 

部下の進言を却下したとされる軍令部総長豊田副武は戦後、自著「最後の帝国海軍」のなかで次のように説明している。一九五〇年の発行である。


「スイスから来たそれについての電報の内容は、はっきり記憶していないが、結局海軍省も軍令部もそんなものは危険だ。第一言って来ているのが中佐で、こんな大問題を中佐ぐらいに言ってくるのはおかしい、というわけで真剣にとりあげる者はいなかった。
 
当時それに対して海軍が下していた観測は、概ね次の如きものであった。
第一、米国は日本海軍が開戦前から、この戦争に賛成していなかったということを承知している。日本では、軍部が国策遂行の全権を握っているので、日本をして戦争継続を断念させるには、軍部の一画である日本海軍を切りくずさなければならない、と考えたにちがいない。
 
第二、米代表ダレス氏の提案は、日本海軍が一歩踏み出すだけの関心をそそるような具体的な内容を持っていない。(単なる抽象的な言辞のみで、内容とか条件というものはなかった)

 

第三、ダレス氏はドイツの終戦について非常に活躍した人だそうであるが、ドイツの終戦の模様というものは当時我々の知る限りに置いては、日本の模範とするような何物もなかった。同じ手に乗って日本もうまく行くとは考えられなかった。

 

結論として、この進言は日本の戦意を打診するバロン.デッセエ(観測気球)か、ないしは戦意破壊の謀略以外には、解せられない
と小島武官同様、全く否定的であった。

 
アメリカ側が飛行機を派遣すると言う話は、日本では誰もが耳を疑った。藤村が事実と違う内容の電報を打ったことが少なからず、影響したようだ。

 

最後は、海軍の良識派といわれた海軍省教育局長高木惣吉少将である。次の文章は、一九六九年に書かれたものである。

 

「私の見聞した藤村電には、米国が対日戦に英.ソの参戦を望まないこと、対日戦が七月下旬までに終らなければ、ソ連が対日戦争に参戦することを示唆し、ルーズベルト大統領が同意したこと、米軍部は大規模の空襲、工業、輸送、都市の破壊後、本土上陸、無条件降伏をねらっており、その時期は七、八月と判断されること、ダレス特使は五月二十三日、二十五日の二回申し入れてきたこと、海軍将官級をスイスに送る意図があれば、飛行機は先方で準備する等の要旨であった」

 

藤村とダレス機関との会談の日付を正確に再現した。スイスからの電報に接し、メモを残した証左である。同時に自分の態度として


「六月十四日に(海軍ー筆者)大臣に面接したときは”スイス電が本物ならば、私をスイスに派遣していただきたい。本土上陸だけでも食い止められる気がする”と、一生ただ一度の自薦を申し出たが取上げられなかった」と書いている。高木も戦後は自身を美化したのではなかろうか?
 
軍令部次長藤大西は、特攻の父と呼ばれる海軍の中では最強硬派で、藤村電については真っ向から否定した人物である。敗戦と共に覚悟の自殺を遂げる。よって手記等は残されていないが、当時のコメントが高松宮日記の中にある。七月二十六日

 

「(大西)次長より、和平の噂しきりに始まり,これでは”特攻”も行かなくなるし、暗殺も始まるであろう等の所見あり」と迷惑そうに書いている。ここでの和平の噂とは、藤村電も含んでいようか?

 

当時の電報をひとつ紹介する。それは八月十四日、海軍次官、軍令部次長の連名で海外武官に向けて
「確かに外交交渉は始まった。しか海軍軍は、国体の護持が保たれないならば、いかに厳しい結末になろうとも、戦いを継続するであろう」と送っている。これは陸軍と協調したものであったが、終戦前日に海軍中央が打ったものであると言う事実は残る。

 

海軍省・軍令部のあった場所は、現在は中央合同庁舎5号館で厚生労働省が入る。

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