<笠の和平勧告>
      
次いで二十日、藤村は朝日の特派員でベルンに駐在する笠信太郎の意見を送る。笠については藤村は文春でも

「スイスにはすでに朝日新聞の笠信太郎氏(元論説委員)が早くから来ていて、日米和平に活躍していた」と紹介している。


「一七○号 スイス武官発次官,次長宛て 
以下は朝日新聞特派員笠信太郎の時局分析である。分析は的確なので、我々は我々の交信に入れる事にした。海軍で参考にした後、内閣顧問の緒方氏に渡してください。


Aモスクワの十九日の国内放送は“ポツダム会議で日本問題が話し合われ、対日戦勝利の方法が決定された”と伝えた。モスクワの態度はニューヨークのヘラルドトリビューンに絶えず登場するアメリカの対日条件と対照的である。(中略)
  
アメリカの権威筋は最近“日本からの和平の提案は無い”と語ったが,ドイツ降伏時には見られなかった現象だ。アメリカの世論が平和を求めている証拠である。同時にアメリカの権威も同様に、毎日日本の提案を待っていると解釈できる。
 
こうした状況に照らしてみると、もし我々が直ちに和平の提案をすれば,アメリカは比較的好意的条件で直ちに受け入れると言う印象を与える。しかしながらポツダム会談が最後の黄金の機会である」
 
藤村が東京を説得するため、識者である笠を引っ張り出したといえる。藤村はこの日米の交渉と言う晴れ舞台に、登場したくてたまらなかったのかもしれない。しかしこれらの電報は効果がなかった。七月二十二日、海軍は次の様に西原に返電した。

「この件は外務省に移管した。かれらから貴地公使館と接触するので、海軍は今後、少なくとも表向きは一切関与しない。

目下日本は全力を挙げて、戦争の継続に努めている。最近の敵プロパガンダの性格から判断して、敵が困難に直面していることが窺われる。海外の海軍出先は慎重に行動し、軽率な行動は慎むように」と紋きり文章で、藤村を落胆させるに十分な、内容であった。

      

これを取り上げたマジックサマリーの脚注には
「加瀬公使自身も外務省に対し、前国際決済銀行のパー.ヤコブセン博士と北村孝治郎同行理事の、和平を探る話し合いについて報告している。

   
イメージ 1
ハンブルク時代の北村孝治郎 「杉本勇蔵の体験した戦前、戦中のハンブルク」より

加瀬の説明ではヤコブセンは、二回ダレスと話し合ったという。この話し合いが西原の活動と関係がある、という証拠はない」と東京ですら、スイスから二つの和平の話が入り込んで混乱したものの、アメリカ側は冷静に理解していた。

      

実はこの時スイスでは、陸軍の岡本清福陸軍武官を中心とする和平の動きが、平行して進んでいた。相手は同じダレス機関であった。ロシアの仲介を当初は主張した加瀬公使は、岡本ー北村ーヤコブセンルートを影で援助していた。

      

海軍も陸軍も、スイス公使館内に事務所を開設していた。加瀬は藤村とも毎日顔を合わせていたにもかかわらず、藤村らの動きは全く知らない。東京から、自分の公使館内藤村の工作を聞いた加瀬が、これを真剣に取り上げなかったのは、後に紹介する外務省への報告電に、見る通りである。
 



<命令受領>
        
東京からの返電を受けて藤村は
「ああ、我ら一同は東京に人なきを痛感した。(中略)それにしても海軍大臣より正式に外務大臣に廻り外交交渉となる事を喜んだ」
と無念さを書いている。文春手記の一つのクライマックスを形成しているが、七月二十六日日電一七五号によれば事実はこうだ。

「二十二日の貴電の拝領。
一.私は帝国の政策と、海軍の視点を十分に理解しております。私はこれまで不注意な行動をとったことはないし、将来もないでしょう

二.私は戦争の推移に関係なく、敵との間接的連絡を保つことは意義深いと考えます。この連絡路を通じ、捕虜の問題など話し合うことができます。

三.東京が必要とするなら、ただちにアメリカと連絡をとる道は、今後もわれわれには開かれています」

と自分の見つけたルートに未練を残しつつも、海軍の指令に恭順を示す電報を打っている。意外に冷静な反応であった。そしてスイスにおける海軍の和平工作は終了する。

この電報の日付も、藤村は一ヶ月繰り上げている。すでに日本の終戦は、秒読みに入っていた。

七月二十六日、米英中首脳によりポツダム宣言が出される。日本はその受諾に向け、動き出した。日本でも終戦が決定的となった。もう藤村の出番は来なかった。
 



<OSS文書>
      
マジックサマリーとは別の、アメリカ側の公文書によっても、藤村証言の検証が可能である。アメリカ側の藤村の提案に対する、捉え方もそこからはある程度見ることが出来る。スイスのOSSとワシントンの国務省との間の交信録は、やはり一九七十年代後半になって、閲覧が可能になった。その一つである


「合衆国外交関係文書集  一九四五年」を見ると、OSS長官代理G.エドワード.バックスタインが六月四日、国務長官に宛てた報告に藤村が、最初に登場する。藤村が第一電を送る一日前である。


「この情報の源も、前と同じ反ナチ親日の極東通ドイツ人であります。情報源は藤村に接触しています。藤村は在欧日本海軍の代表の一人で、前ベルリン軍武官補佐官でありました。藤村は日本海軍大臣と、直接且秘密の通信連絡をもつと伝えられ、また日本政府の信頼を得ていると信じられます。 

 

藤村は、情報源に対し、日本政府を今やコントロール(?)している海軍部内の一派は、共産主義と混乱を防ぐため、天皇を保持する必要を特に強調していると言います。


藤村は日本が基本的な必要食料を自給できず、砂糖と米とを朝鮮に依存している、と強く主張しています。彼はまた、必要食糧輸入のため、商船隊の保持を日本が必要としていると主張しています」

ハックは、藤村ルートを有望と強調したようだ。それが「日本海軍大臣と、直接且秘密の通信連絡を持つ」という表現になった

ハックを通じての藤村の提案は、こうしてアメリカの中央に届いた。ダレスとしては報告する事で、間接的であれ藤村側と接触をする(言い分を聞く)承認を得た。これが藤村の日本に報告した「ダレスは政府の承認を得た。日本からの返事はまだか?」という根拠であった。


      
ここでは天皇制の保持等の日本の降伏に対する条件ないしは希望を、藤村がすでにアメリカ側に提示したこともわかる。日本と事前に協議した跡はない。


そして自分が独断で和平の条件を持ち出した後も、いっさい日本に報告しなかった。ひたすらスイスで交渉に入ることの有利を訴えた。独断先行と断罪されてもしょうがない。


藤村は戦後「ダレス機関からではなく実際は自分の方からダレスに接触した」と手記の内容を訂正した。これは事実であろうか?


OSS電には「情報源は藤村に接触しています」とある。この文面通り、ハックがまず動いて藤村に接触したというのが本当ではなかろうか?
藤村の登場よりひと月ほど前の五月十二日、OSSから国務長官にあて


「同情報源(ハックー筆者)は五月十一日、スイス駐在日本公使加瀬俊一と語りました。かれは、加瀬が日本人と連合国との敵対の停止につき、橋渡しを希望したと報告しています。伝えられるところによると、加瀬はソヴィエト国を通ずる交渉よりも、アメリカ人とイギリス人との直接対話の方が、望ましいと考えているといいます。、、、」と送っている。

ハックは祖国ドイツの崩壊後、藤村ではなく、まず加瀬に接触した。そして勇気ある和平を日本公使に勧めた。しかし加瀬は態度が煮え切らない。こうした公使の態度はすでに見てきたが、当時の朝日の駐在員であった笠信太郎も「もどかしさを覚えた」と回想している。外交官としての限界であろうか?


そこで約一ヶ月後、ハックは対象を藤村に代えて接触し始める。藤村は加瀬と違って、行動的であったのはすでに見てきた通りだ。

このようにスイスでの海軍による和平の動きは、藤村でもダレスでもなく、日本に恩を感じるハックのイニシアチブによるものであったと考えるべきであろう。


さらにはハックが「アメリカ側も交渉に乗り気である」とか「日本から大臣級を派遣させろ」いう話を持ち出し、藤村をその気にさせたのかもしれない。

第八部以上