スイス入国を果たせなかった人々

ここからは終戦間間際、スイス入国を目指したものの、果たせなかった人を紹介する。

<東南から>

東南からもスイスの国境を目指した一団があった。日高信六郎駐伊大使は元々ローマに駐在していた。しかし連合国の接近で一九四三年九月には北イタリアに避難し、まずベニスに大使館を移した。

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1944年1月1日コルティナ ダンペッツオにて。子供は左端が清水泰子さん、首をかしげているのがまゆみさん。水兵服を着ているのが山下兄弟。ブレザーの二人が三城兄弟。その真後ろが清水武官で左隣が日高大使。

いよいよ連合国迫るの報で,彼らが目指したのはスイスであった。五月二日、ベルンの日本公使館に日高大使のメッセージが届いた。それによると日高大使他二十八人の日本、満州国外交官らは国境の町ミュンスターに着いて、スイス入りを要求した。しかし国境責任者より拒絶されたとのことである。加瀬俊一スイス公使は「非常な困難が予想されるがスイス政府、軍当局者と交渉をする」と折り返し伝えた。

ちなみにミュンスターは1944年にミュスタイアーと名前を変え今日に至っている至っている。スイスで最も奥深い地域にあり第四の公用語ロマンス語が残り、今日でも使われる村である。

直前にはフィリピンで十数名のスイス人が日本陸軍の手で殺害された。五月四日、交渉のため外務省に出向いた加瀬に対し、スイス側はけんもほろろであった。日高らの入国許可を引き伸ばし、このままでは国交断絶、人道的見地から入国を許可した三谷大使らも国外追放すると威嚇した。加瀬公使は日本政府にフィリピンでの事件の処理を急ぐ様依頼する一方で、館員の一人上田常光をミュンスターに送ったが、日高大使一行に接触することは出来なかった。

スイス東端の国境に突如と現れた東洋人の一行は、警備に当たるスイス人にも印象深く映った様だ。後に一人が書いている。
「ローマの日本大使館の小柄な紳士一行が良く磨かれた黒いリムジンで到着し、スイスが支給した毛布をしいて牧草地に座わり,我々の食器に注いだスープを受け取っている。かれらは入国許可を待っていて,それを受け取ることになる」

ここでは「一行はスイス入国の許可を得た」と書いてあるが、事実は異なる。五月七日に正式にスイスより入国を拒否された彼らは、イタリアのメラーノに引き返す。そこで進出してきた連合国軍に捕らえられ、戦後ナポリより帰国する。(内六名の軍関係者は大島大使らとアメリカに移送される)

さらに戦後間もなくのスイスからの帰国者リストを見ると、ウィーン公使館勤務であった井上賢曹領事と家族、また山路章ブルガリア公使の夫人澄子ら家族の名前がある。井上は病気の娘を抱えていたため、他の公使館員と別れ独自にスイス入りを目指していた。山路夫人も早くからウィーンに避難していた。彼らの入国の記録は見つけることは出来ないが、人道的に入国を許されたのであろう。あるいは入国はドイツ崩壊後のことであったかもしれない。(後日調査の結果、井上家は入国できなかったことが判明)



<井上賢曹一家>

イタリア語の専門家として戦時中はローマ大使館に勤務した、井上賢曹書記官一家はスイスに入るということで、荷物も送り出したが、結局入国査証は得られずにオーストリアの町シュルンスで終戦を迎え、ここからナポリに向かい、日本に帰国する。その詳細については「日本人小学生の体験した戦時下のイタリア」参照頂きたい。



<光延東洋駐イタリア海軍武官遺族>

「スイス入国を目指すが、駄目な場合は日本人外交官の避難場所である、オーストリアのバードガスタインを目指す」とベルリンから南に向かった邦人は多い。報道関係者はその典型で、同盟通信のベルリン支局長の江尻進は避難途中にガルミッシュ・パルテンキルヒェンからスイス国境に向かおうとした日、スイス国境にフランス軍が到達して、スイスを目指すのをあきらめたが、当初より何が何でもスイスに入るという気構えではなかったようだ。

しかし光延東洋駐イタリア海軍武官の遺族一行は、ビザはないにもかかわらずスイス入国を試みた。その経緯は「光延海軍武官一家が体験した戦時下の欧州」を参照いただきたい。ここでは光延一家をベルリンから引率した皆川清海軍中佐の回想から、実際にスイスとの検問所で起こったことを書き記す。

一行がベルリンを発つ際、海軍武官室が手配したのは英語、独語、仏語、伊語の4か国語を話す秘書Frau Weberを同行させたこと位であった。国境の町コンスタンツで皆川は妙案もなく、機会あるごとに国境の検問所に駆けつけるが、思うようにいかずに思案に暮れていた。そうこうするうち4月26日になり、アメリカ軍の装備をしたフランス軍が進駐してきて、皆川の泊まるホテルの下の道を戦車が走って行った。

光延家(2歳の子供を含む)を連れた一行は慌てて国境に駆けつけた。その様子は以下のようだ。
「国境の門付近は大勢の人、スイス側にはスイス軍の兵士、ドイツ側にはドイツ兵がいつもならば警備してるがドイツ側には誰もいない。国境付近の家々はすっかり表戸を降ろして、しんとしている。スイス側警備兵に入門通過を申し入れると、ただ今労務者が通過中につきしばらく待てとのこと。大分待たされたがその間、数回入門を申し込んだが、いずれも待てとの指令。

いつまで待つべきやと思っているところへ連合軍の幹部が車で乗り付け、スイス側と握手を交わし、ドイ軍警備兵の代わりに連合軍の兵士が立ち、直ちに国境は閉鎖され、出入り禁止となった。」

こうして一行のスイス入国は不可能となった。



<同盟通信社 菊池守>

報道関係者の中に、ひとりスイス入国を試みたものがいた。同盟通信社のベルリン支局に勤務した菊池守である。先述の皆川中佐は、コンスタンツのホテルの食堂で初対面の日本人と会った。話をするうちに同盟の菊池守であることを知った。(皆川はX氏と書いているが、筆者は菊池氏であると考える。)

菊池は社命ではなく、非公式にこの町に来たという。そして知人を頼ってその人の手助けで、スイス越境をしようとしたが、その知人がすでにどこかに行ってしまったので目下知人を捜索中と、少し唐突な説明をした。

この知人はドイツ人の女性であったと思われる。先述の西村ソノがベルリンを脱出する際、一人の同盟の記者がフォルクスワーゲンで南下するに際し、ベルリンの日本大使館がソノにその記者の車に同乗出来るように話をつけたという。そしてその記者は、大使館の人に見送られてしばらく走ってから、途中で待たせてあったドイツ人の娘を車に乗せたと回想している。筆者はこの同盟記者もコンスタンツのX氏、菊池であったと考える。

そしてコンスタンツでその女性が行方不明になったとすれば、南に避難したいその娘に菊池は利用されたのかもしれない。ドイツ人にはこうした移動の自由はなかった。

皆川が菊池のコンスタンツでの行動をさらに記している。
「かれ(菊池)は知人を探し当てず、止むなく国境のあちこちを一日中歩き回わり、(スイス側への)目ぼしい抜け穴を探し回ったが、成果なく近くの住民が同情して食べ物やなにやらを与えられ、フラフラになって帰ってきた。」

スイスが不法越境を厳しく取り締まった時代に、日本人が容易く国境突破を出来るとは思えないが、菊池は特別な通り道があるとでも聞いて探したのであろうか?

そしてフランス軍が進駐してきて菊池も国境の検問所に向かったが、やはりスイス入国は果たせなかった。

コンスタンツで一時一緒に行動した光延孝子によると、菊池はコンスタンツでフランス軍に捕らえられ、パリの収容所に送られた。その後フランスの港町、ルアーブルに送られ、バートガスタインなどで抑留された日本人外交官らに合流しアメリカに送られた。(小野満春「僕の欧米日記」)



<ドイツ陸軍武官室>

ドイツ陸軍武官室は小松光彦陸軍中将をヘッドとする大所帯であったが、1945年1月15日、ベルリン南方50キロのトイピッツに早々と疎開を開始した。その後はオーストリアのサンクト・ギルゲン(St. Gilgen)に移るが、彼らもスイス入国を試みた。そのため4月14日、石塚武雄中佐と吉成睦太郎少佐がスイス国境に向け出発した。スイスの陸軍武官室とスイス入国の狙いも含めて協議するためであった。

ベルリン陸軍武官室の一員であった石毛省三大佐は
「スイスの武官室と連絡はついたが、ドイツとスイス間の国境閉鎖の関係上、実現するに至らず」と戦後書いている。

一方要請を受けたスイス陸軍武官室の桜井一郎補佐官は次のように回想している。

「中村賢一中佐を派遣し、国境近くの町で石塚中佐と相談させた。そして中村中佐の帰来を待って、スイス政府に善処法を申し入れた。」それに対しスイス政府からは、入国してくれば抑留するとの返事であった。しかしベルリン武官室は強硬で

「抑留は捕虜の身、断じて受け入れることは出来ない。日の丸の旗を立て、一同軍服で堂々と入国を要求する」と答えた。
桜井はベルリン組に何度か翻意を促したが拒否された。そうして時間が過ぎ彼らは大使館組と一緒に、バード・ガスタインでアメリカ軍に抑留された。

外交官待遇である彼らは、何が何でもスイスに入りたいというでもなかったようだ。



(2014年3月9日)