| <西村ソノ> 西村ソノは今もお茶の水にある文化学院の院長西村伊作氏の令嬢であった。同学院は自由闊達な校風の学校として知られるが、西村は戦前チェコのプラハに留学して、美術工芸の勉強をしていた。桑木務氏の著書「大戦下の欧州留学生活」には彼女の当時の写真が載っているが、大変洗練された姿である。その後ウィーンに移るが、そこもソ連軍の進出する所となり、ベルリンにやって来た。 戦争最後の年のある雪の夜、西村は与謝野を訪問する。そして 「ベルリンの運命は風前の灯火であるから、自分も日本人の避難地に予定されている郊外のベルチヒに行ってみた。しかし数百人の日本人の中に自分のような若い女性も少ないし、食事の点などでベルリンの方がまだましなので、一応帰って来た。いざとなれば皆と合流することになっているが、まだ勉強の途中でもあるし、中立国のスイスかスエーデンへ避難し、勉強を続ける方法はないかと、日夜悩んでいる。貴方はいずれスイスへ帰られるという話だが、何とか知恵を貸してもらいたい」と打ち明けた。与謝野は 「日本人であなたより先に希望を出した人で、いまだ許可が下りない人が相当に多い。ウェイティングリストが詰まっている今日では、手遅れだと思う。やはり日本人全部と運命を共にするつもりでベルチヒに残ることが、一番早く故国へ帰れる道だと思う」と、説教交じりに西村の時局認識の甘い考えを諭した。 但し試みる価値がある方法として 「公使館を通しての取得はもう先に述べたように手遅れの状況だが、個人でベルリンのスイス公使館へ行って、今までの経歴を話し、スイスで勉強を続けたいという希望を申し出れば、あるいは先方も出先の権限で好意的に取り計らってくれるかもしれない」とアドバイスした。 間もなくして与謝野は西村に別れの挨拶も出来ずに、あわただしくスイスに向かった。そして四月中旬、突然ベルンの与謝野の元に西村からの電報が届いた。西村は与謝野の助言に従って、すぐさまスイス公使館を訪問していた。 「応対した書記官は大変同情して、 スイスの学校の入学許可と生活費の保証人があれば大丈夫ということだったから、貴方のことを親戚ということで話したら、それなら問題無いだろうと説明した。ついてはスイスの外事警察に口添えをしてほしい」という内容であった。 与謝野は慌てて、顔見知りの警察の長官を訪ねて訳を話した。しかし長官からの答えは否定的であった。外交官の頼みでも、例外は認められないとのことであった。与謝野は失望したが、その内容をそのままベルリンに打電した。 ところがその電報が着いたとき、すでに西村は南に向かってベルリンを後にしていた。西から迫るアメリカ軍と東から迫るソ連軍がエルベ川で手をつないだのが四月二十五日である。ドイツが南北に分断される前に、ベルリンを脱出しなければならなかったからだ。 ドイツが降伏して間もなく、与謝野はドイツ語の電報を受け取った。 「ブレゲンツの国境に来て査証を待っている。至急お願いする」という西村からの悲痛の叫びであった。赤十字のキャンプに入った彼女は、毎日国境の税関に出頭して査証の到着を問い合わせた。その可憐な姿はスイス側官憲の間でも、有名になっていた。 このままではいつまで経っても西村は入国できない。与謝野はもう一度奔走する。そしてようやくローザンヌの大学から入学許可を得ると、連邦警察は国境の税関に電話をかけてくれ、西村はスイスに入ることが出来た。 彼女のベルリンを出てからスイス国境までの経過も波瀾に富んでいた。もっぱら通りすがりのドイツ軍のトラックや軍用車に乗せてもらって、国境の町ブレゲンツまでたどり着いた。その間爆撃があり林の中に避難して戻ってみると、自分の乗って来た車は炎上していたという。 ドイツの装甲車に便乗していた時は、後方で空を眺めて警戒していてくれと頼まれた。そして言われた通り後ろ向きに腰掛けていると赤十字のバスが来たので、そちらに乗り換えた。すると車のドイツ兵は手を振って別れを惜しみながら「やはり女は得だ!」と叫んだ。 赤十字のキャンプではほかの収容者と、どうやって国境を越えるかばかりを考えていたが、やがてドイツは降伏する。するとそこの司令官は日本にとって交戦国であるドゴール派のフランス人将校になった。ところが西村に査証が出たと分かった晩、司令官はシャンペンを抜いて祝ってくれた。このように可憐な東洋からの女性はどこでも丁重に扱われた。 「マールスドルフ会」という終戦時のベルリン駐在邦人が一九六五年に発行した会報の住所録によれば、西村はアメリカ、シアトル在住でベルガー夫人となっている。 ![]() 前列右が西村ソノ 1945年のクリスマスをスイスで山路家と過ごす。後列右端は次に述べる三谷大使。(山路綾子さん提供)
注:文化学院は2018年3月31日に閉校。
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<三谷隆信>
三谷は一九四○年秋から、一九四二年春までスイス公使を勤めた後、フランス大使として親独政権の首都であるヴィッシーに滞在していた。連合軍の反撃でフランス政府はそこを追われ一九四四年秋、南ドイツのシグマリンゲンの古城に避難し一応臨時首都となった。倉知夫妻がスイスのビザを入手するために到達した町である。そして三谷大使ほかの日本大使館員もヴィッシー政府と行動を共にしていた。 一九四五年四月二十日朝五時、三谷ほか四名のフランス大使館員はいよいよそこも引き揚げる。そしてその夜は東方六十キロのワンゲンの民家に一泊する。共に行動するドイツ人が同盟国外交官のために見つけて来た家だ。正午にはもうフランス軍の先遣隊がシグマリンゲンに入る。 翌日はブレゲンツに一泊する。ドイツ側はさらにチロルへ一行を案内しようとするが、三谷はスイス入りを決め、スイス入国手続きにはいった。許可は例外的にすぐに下りた。この時スイスの外務次官であったウォルター.ストゥーキイはヴィッシーでスイス公使だった関係で、三谷をよく知り「国境に三谷大使が現れた場合にはスイスに庇護すべし」という訓令を出していたからであった。 二十二日夕刻、三谷ら一行は車で国境を越えた。スイス側の車に先導され、車は警察署に横付けされた。すると三谷の車に同乗してスイス入りしようとしたヴィッシー政府の情報大臣パウル.マリオンは車から下ろされ、フランス側に引き渡された。彼の顔は真っ青になっていた。自由になった三谷はスイス側の都市サンクト.ガレンの街を散歩し、平和な空気を吸っていることをつくづく感じた。 外交特権はやはりありがたかった。しかし三谷はスイス国内では外交官としての特権は与えられない難民扱いであった。ベルンの公使館から本国に早期に日本の和平を唱える電報を一本だけ打ち、モントルーのホテルに引っ込んだ。 <沼田英治駐仏陸軍武官一家>
三谷大使と共にシグマリンゲンに滞在していた沼田武官は、1945年1月に岡本清福スイス陸軍武官が軽い脳溢血で倒れると、猛烈にスイス入りを日本に働きかけた。沼田は妻照子、次男光春、三男順を伴っていたため、家族を安全な場所に移したいという気持ちが強かったからである。 スイス公文書館の記録によると、沼田一家が暫定スイス武官(als interimistische Militaerattache)として入国申請を行ったのは2月のことで、スイス側は3月24日に岡本の後任として了解し、4月9日に許可を出した。 そして4月9日、ドイツ崩壊わずか一か月前であるが、一家はシグマリンゲンを発ちスイスに向かい、無事入国した。 ![]() フランス ビッシーにて。 軍服姿が沼田武官、前後が光春、順。妻照子は中央。右となりが三谷大使。 |
| <倉知夫妻のその後> 特別にスイス入国を許された倉知夫妻は戦後、放送局に職を得て、そのままスイスに滞在する。終戦の翌年にはマッカーサー元帥の名で欧州に滞在する全邦人に対しての帰国の指令が出された。こうしてスイスからも三谷大使、与謝野一等書記官や西村そのを含む百名近くが引き揚げると、後には倉知夫妻、スイス人と結婚していた男女四名ほどのみが残ることとなった。ベルリンの海軍武官室に勤務した酒井直衛はスエーデンから本国に引き揚げたが、戦時中からスイスに避難させていた英国人の妻と二人の娘もジュネーブに残った。スイスの邦人数が近年で最も少なくなった。 倉知の妻淑子は、一九五二年ころより日本で声楽家として活躍するようになり、ふたりは離婚する。その後彼女が引退をした一九七五年に再婚し、再びジュネーブで暮らしはじめる。夫緑朗は戦後一貫してスイスに暮らしている。スイス滞在の一番の古株である。そんな倉知夫妻の名前が新聞に久しぶりに登場したのは、今年三月のことである。 ソプラノ歌手古沢淑子(旧姓)は二月十日、庭を散歩中に転び、左足の骨を痛めた。病院でベッドから落ちて傷が悪化、十五日の手術中、急に亡くなった。 夫の倉知緑朗さん(八七歳)は電話の向こうで言った。 「もっと長生きできたかもしれません。でも悔やんではいないでしょう」 (2001年5月4日) |

