<ピクニック>
行動の自由の制限されたモスクワについて先述の西公使も
「ソ連の生活は(前回の勤務時)とはうって変って暗いものであった。ロシア人との素朴な付き合いなど到底望めなかった。(中略)これに反してベルリン、ローマあたりにいる日本の外交官は一番優遇された。それはもう地獄と極楽の違いであった」と記している。辻家はまさに極楽から地獄へと移ったことになるが、正義は子供心にモスクワ生活もそこまでひどいものとは思わなかった。
「娯楽も集団で」が基本であったのだろう。大使館のピクニックには館員家族が皆そろって出かけたが、その時も大使館の十数台に連ねた車が大使館を出ると、守衛のゲーペーウー2人ぐらいの者が車で必ずついてきて、遠くから監視していた。確か赤い車だったと正義は記憶している。ドイツ大使館の運転手ワロージャは、東郷大使に連れられてきたのか、ここでも一緒だった。
ピクニック自体は大変楽しいもので、“銀の森”と呼ばれた白樺の林の中でキノコ狩り、そしてアトラクションに宝探しなどした。ここは公園として、今もモスクワっ子に親しまれているようである。

1939年春の事であろう。女性は寒いのかコートを着ている。銀の森でのピクニック光景。

蓄音器が真ん中に見える。宝探しで銀のスプーンを見つけたが、「キャラメルがいい」とそっぽを向く正義(右)。白樺の美しさが分かる。
スキー、スケートなどにも父に連れていってもらったが、あまり滑れないので抱かれて滑っていたように正義は覚えている。モスクワは気温が低いところであるが、住居の暖房設備や防寒具がそろっているので、室内では全く寒さを感じないほどであった。寒さをもっとも強く感じたのは、日本を発つ前の奥沢小学校、戻って九州での生活であった。それからいろいろな記念日や祝祭日は楽しいことが多かった。ロシア料理も慣れてきて、美味しく食事ができた。
<正直の発病>
正直はモスクワでもたいへん忙しい日々を過ごしていたようだが、急に体を壊し入院することになる。転勤して半年ほど経ってであろうか。
その当時の医学はドイツが最も進んでいたので、ドイツから医者を呼び、医薬品もおもにドイツのものを使っていた。後に九州に持ち帰った荷物の中にはドイツの医薬品、器具、医学書などがあった。しかし薬石効なく正直の病状は悪化の道を辿った。
その時は胃潰瘍だと聞いたが、今考えると胃がんだったのかもしれない。病院へも母と一緒に何回も見舞いに行った。やがて正直は病院からモスクワ郊外の別荘に移り、家族もそこで暮らすことになった。正義はロシア外務省の偉い方(参事官)の別荘だと聞いていたが、“東郷いせ”も利用した大使館の別荘ではないかとも想像される。

正直が療養で入った別荘
林に囲まれた静かな場所で療養には絶好の場所であった。当時参事官だった西春彦氏夫人の描いたウアレンチノフカ別荘の庭の油絵を辻家はいただいて、今も保存している。上の別荘の反対側の庭であろう。日本から連れてきた、赤松先生について習った絵であろう。特別にソ連の要人から借りたというよりは、日ごろから日本大使館の別荘として利用していたことを裏付ける。

西春彦夫人の絵
正義たち子供はこの林の中でよく遊んでいたが、正直を見舞いに訪れる人もたいへん多かった。その際には子供の土産もよくもらった。父正直が亡くなる前最後にもらった土産は、ブリキでできた割合大きなレーシングカーであった。林の中でそのオモチャで遊んでいる時に父の死を知らされた。1939年7月9日、モスクワに来て半年後の事であった
父正直は最後まで意識がはっきりしていたと聞いている。異郷の地で病に苦しみながら、郷里の身近な者にも会いたかったであろう。また仕事でも、もっとやりたいことがたくさんあっただろう、と正義は大きくなってから思った。冒頭より紹介してきた杉原千畝は正直の死の翌年、1940年7月よりリトアニア領事として5、000名のユダヤ人に通過査証を発行し、その偉業は多くの人に賞賛された。

父死亡の日
葬儀はモスクワの大きな教会で行われたが、東郷大使家族はじめ多数の方々が参列をして別れを告げた。花に埋もれた棺は そのまま教会の地下室へ沈み火葬されたと聞いたが、一部は教会の納骨堂へ分骨された。鉛で作られた立方体の箱に封じ込められ、それが大理石の壺に納められた。
本格的な葬儀とは別に仏教による弔いも頂いた。仏具、線香なども用意され外務省職員の方と思うが読経も頂いた。これらが終わると母と正義の二人で大使館の方々など挨拶とお礼に回ったが、どこへ行っても励ましてもらったことを覚えている。こうして二年足らずで辻家の欧州での生活は終わりを告げることとなる。

東郷大使と婦人エディット(左)中央より右に澄子、正義、一人不明で静子。 棺が地下に沈んでいくところ。
遺骨は帰国するときには外務省の特別証明書が付けられ、戦争が近づき厳しくなっていたソ連の税関といえども、手を触れることはなかったと聞いている。(一般の人の持ち物検査は厳格で布団、枕に至るまで検査していた。)
帰りはシベリア鉄道を利用したが、広い個室を使わせてもらったので、日本の汽車とは全く感じが異なり、ゆったりと過ごすことが出来た。行きの優雅な船上生活とは勿論比較にはならないが。
食事は部屋(コンパートメント)にも持ってきてくれたが、食堂車を利用することが多かった。個室にあるラジオからは、日本軍部が権力を振るって戦時体制へもっていこうとすることにたいしての非難や、日本に対する批判が多く聞かれ、ソ連の対日感情は極めて悪くなっていたようだった。子供達にはロシア語は分からなかったが、母はそのラジオを聴いていつも心配していたようだった。1939年9月1日、ヒトラーがポーランドに侵攻して、欧州戦争が勃発するまさに直前の事であった。
正義は物心がついてからは殆ど病気をした覚えはなかったが、帰りのシベリア鉄道では熱を出して一晩母に看病してもらった。それまでに病気らしい記憶としては、奥沢小学校で運動会の時寒くて保健室へ行ったぐらいだった。
ウラジオストックから敦賀までは船だったが、敦賀には九州の親戚一同が迎えに来てくれていた。帰国の様子は当時の新聞にも報道されたと聞いているが、筆者が当時の朝日新聞を調べた限りでは確認できなかった。
また東郷大使らが発起人となり、正義ら子供3人の養育費のカンパを外務省職員に広く呼びかけてくれた。そして当時としては高額の資金6400円余りを頂くことになった。遺族年金など充実していなかった時代、こうして一家の大黒柱を失った家族を支えたのであろう。発起人である東郷大使、次の大島大使はそれぞれ60口、300円とかなりの金額を寄付した。幾度か紹介した杉原千畝もそのリストに名前を連ね、6口の寄付を行っている。先述のように外務省の初任給が80円の時代である。

東郷大使、大島武官(ベルリン時代より)、西春彦公使他の発起人。左にはほぼすべての外務省職員が名前を連ね、最低でも一口は寄付をしたと思われる。(2枚目はここでは紹介していない)。
帰国後は母静子の故郷福岡県三潴郡に住む。そしてそこで太平洋戦争開戦、および終戦を迎える。正義は、外国帰りという偏見の目で見られながら、地方の生活に馴染む努力をする中、以降はあまりベルリン、モスクワ時代の人と会うこともなかった。優しかった母静子は1988年4月10日、76歳で亡くなった。また終戦時にはマル秘と判の押された書類はすべて焼却したという。
終わり
主な参考文献
色無花火-東郷茂徳の娘が語る「昭和」の記憶- 東郷いせ
回想の日本外交 西春彦
萩原延壽集 4 東郷茂徳 萩原延壽
時代の一面 東郷茂徳
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