<ベルリンの日常生活>
大使館勤務の正直は大変忙しそうだった。辻家が家族そろって食事ができるのは朝食ぐらいだったという。
一方家族にとってベルリンの生活はきわめて快適であった。これは多くの欧州に滞在した子供の持つ印象と同じである。まず子供のおもちゃが素敵であった。模型機関車は頑丈な作りでレールの上を走る実感があった。その当時玩具の蓄音機は紙のレコード盤でゼンマイ仕掛けの仕組みでしっかりと音を再生していた。映写機も手回しのものであったが、約15ミリのフィルムを使用し、結構長い時間の映写が可能であった。玩具においてドイツは日本に比べはるかに先進国であった。
当時の日本にはない精巧な鉄道模型であった。今も有名なメルクリン製
市立公園(Stadtpark)へ行けばドイツの子供たちとよく橇(そり)で遊んだり模型飛行機を飛ばしたり、ゲームなどをして遊んだ。子供劇場、人形劇、子供専用の映画館などもあってドイツの子供たちと一緒に子供たちだけでよく出かけた。子供用人形劇場は「日本人小学生が体験した戦時下のイタリア」で紹介した山下忠さんもよく記憶している。当時の代表的な娯楽の一つだったのだろう。
母静子はカメラを使っていたが、多分ツァイスのスーパーシックスというモデルであったと記憶している。1937年から1956年まで製造されたカメラなので、当時は世に出たばかりのカメラである。周りのドイツ人からも羨望のまなざしで見られたのではなかろうか。
父は同じくツァイス社のコンタックスだった。引き伸ばし機や現像処理道具もそろえていたという。忙しい業務を終えた後に、こうした今も残る写真を自ら引き延ばしたのであろう。またこれらの機材は日本に持ち帰ったものの戦時中、撮影するフィルムも手に入らなくなり、地元の写真屋に一式買い取ってもらったようだ。
ドイツ製のカメラが当時いかに高価なものであったかについては、以下のような話がある。
同盟通信社のワルシャワ支局長であった森元治郎は1940年7月7日、帰国で神戸に着いた。その際持ち帰ったライカM2の望遠レンズ付きカメラが、税関でひっかかった。職員は税金840円と言いながら、高級住宅地である六甲の山の方を指して「これで一軒家が建ちまっせ」と脅かしたのであった。
ちなみに外務省の初任給が80円、マルセーユまでの一等の旅費が1000円の時代である。
興味深そうにカメラをいじっている静子(左)。当時のハイテク機器の筆頭であろう。また昔から日本人はカメラ好きであった。
大使館で雇っていた運転手の亡命ポーランド人ワロージャにはよく遊んでもらい、ドライブにも連れて行ってもらった。車がカーブにさしかかると、タイヤがきしむ音が聞こえるのを正義は愉快に感じていた。ちょうど有名なアウトバーンが整備し始めたころであるが、ドライブはもっぱら一般道であったと記憶している
良く乗せてもらった車の前に立つ正義。予備タイヤのホイールのマークから車はメルセデスベンツ製であることが分かる。
空気銃の手ほどきもワロージャから教えてもらった。子供用であるが、羽根付きの練習弾以外に実弾を込めれば雀、鳩など撃ち落とせたくらいの性能だった。
銃身は螺旋状の溝がありライフル仕様であった。帰国後よく大人の人たちの空気銃と比較されたが、子供用のドイツ製空気銃の方がかなり性能も上位であった。銃身も日本製とは異なり木製の部分も多く、スマートな形であった。ライフルなので風が吹いていても弾道がゆがまなかった。
母は日常生活で家族の面倒を見たり、ベルリンでの買い物、大使館行事へ参加したりと、慣れない環境で最初は大変だったろうと思う。ドイツ語もいつ勉強したか知らないが、よくこなしていたようだった。一人でドイツ語を使って買い物もしていたし、大使館員の家族達とも仲良くしていたようであった。
一方では毎日メードが来てくれていたので掃除、洗濯食事など家事は全部任せていたようだった。
大使館の夫人たち。若手グループであろう。
長距離列車発着の夜のツォー駅 両側が辻夫妻。当時のカメラの技術水準では夜間の撮影は難しかった。
<食事>
食事はやはり和食が懐かしく正義は寿司、味噌汁、漬け物など食べたかったが、実際はドイツ人の料理人が作る洋食ばかりであった。朝はパン、スープ、大きなソーセージ、イクラ、キャビヤ、バター、ジャムなどを主にいろいろ出されたが、特にソーセージは好きにはなれなかった。戦前でドイツに食糧が豊富にあったことを彷彿させる朝食のメニューである。
大使館の行事などでは和食の寿司なども出されたので、出かけるのが楽しみであった。正義は寿司が特に好きであった。「ジュース」類も好きだった。日本の祝日に合わせるように大使館では祝賀パーティーが催されたが、その時も子供達だけのテーブルがあって、彼らのために用意された料理に舌鼓を打った。
ベルリンではよく旅行にも連れて行ってもらったり、大使館の行事で家族がよばれたりすることも多かった。最初に覚えたドイツ語は、「ワッサーブリンゲンジー(お水をください)やダンクシェーン(ありがとう)、グーテンターク(こんにちは)、オフィーラセン(耳からこう聞こえたようであるが標準は“アウフ ビーダーゼーエン”=さようなら)」などである。
次のようなこともあった。正義が朝早く街に出かけると、歩道にガラスのかけらがいっぱい散乱している。これはユダヤ人の店がドイツの若者(ヒットラーユーゲント?)にやられていたと聞いた。
ゲッペルス宣伝相によって引き起こされた有名なユダヤ商店焼き打ち行為は、打ち砕かれたガラスが月明かりに照らされて、水晶のようにキラキラと光っていたので「水晶の夜事件(クリスタルナハト)」と呼ばれた。1938年11月9日の夜の事である。 正義が目にしたのはその翌朝の光景であろう。
そしてそのようなユダヤ人の店には入らないように注意された。正義にはその時は何故いけないのか分からなかった。特に表示はされていないが、ユダヤ人の店は何となく他の店との区別はできた。
またヒトラー総統はすごい人気で、街を車で通過するときなどは、一人残らず街頭に出て声援を送っていたように覚えている。東京に戻ってから日本軍の観兵式も見たが、それどころではない騒ぎだった。またドイツの若者がアクセサリーにまでヒトラーとかハーケンクロイツのマークを使ったりしていたのを見て、その人気は正義にも分かった。
当時の欧州邦人の写真を見ると、クリスマスの様子が多く残っている。今と比べれば格段に性能の良くないカメラでしかも暗い室内での撮影であるから、写真はどれも鮮明ではない。しかし記録に残したい気持ちを抑えがたいような、きれいな光景であったろうことは想像がつく。辻家の写真にもクリスマスのものが何枚か残っている。
大使館勤務の正直は大変忙しそうだった。辻家が家族そろって食事ができるのは朝食ぐらいだったという。
一方家族にとってベルリンの生活はきわめて快適であった。これは多くの欧州に滞在した子供の持つ印象と同じである。まず子供のおもちゃが素敵であった。模型機関車は頑丈な作りでレールの上を走る実感があった。その当時玩具の蓄音機は紙のレコード盤でゼンマイ仕掛けの仕組みでしっかりと音を再生していた。映写機も手回しのものであったが、約15ミリのフィルムを使用し、結構長い時間の映写が可能であった。玩具においてドイツは日本に比べはるかに先進国であった。

市立公園(Stadtpark)へ行けばドイツの子供たちとよく橇(そり)で遊んだり模型飛行機を飛ばしたり、ゲームなどをして遊んだ。子供劇場、人形劇、子供専用の映画館などもあってドイツの子供たちと一緒に子供たちだけでよく出かけた。子供用人形劇場は「日本人小学生が体験した戦時下のイタリア」で紹介した山下忠さんもよく記憶している。当時の代表的な娯楽の一つだったのだろう。
母静子はカメラを使っていたが、多分ツァイスのスーパーシックスというモデルであったと記憶している。1937年から1956年まで製造されたカメラなので、当時は世に出たばかりのカメラである。周りのドイツ人からも羨望のまなざしで見られたのではなかろうか。
父は同じくツァイス社のコンタックスだった。引き伸ばし機や現像処理道具もそろえていたという。忙しい業務を終えた後に、こうした今も残る写真を自ら引き延ばしたのであろう。またこれらの機材は日本に持ち帰ったものの戦時中、撮影するフィルムも手に入らなくなり、地元の写真屋に一式買い取ってもらったようだ。
ドイツ製のカメラが当時いかに高価なものであったかについては、以下のような話がある。
同盟通信社のワルシャワ支局長であった森元治郎は1940年7月7日、帰国で神戸に着いた。その際持ち帰ったライカM2の望遠レンズ付きカメラが、税関でひっかかった。職員は税金840円と言いながら、高級住宅地である六甲の山の方を指して「これで一軒家が建ちまっせ」と脅かしたのであった。
ちなみに外務省の初任給が80円、マルセーユまでの一等の旅費が1000円の時代である。

大使館で雇っていた運転手の亡命ポーランド人ワロージャにはよく遊んでもらい、ドライブにも連れて行ってもらった。車がカーブにさしかかると、タイヤがきしむ音が聞こえるのを正義は愉快に感じていた。ちょうど有名なアウトバーンが整備し始めたころであるが、ドライブはもっぱら一般道であったと記憶している

空気銃の手ほどきもワロージャから教えてもらった。子供用であるが、羽根付きの練習弾以外に実弾を込めれば雀、鳩など撃ち落とせたくらいの性能だった。
銃身は螺旋状の溝がありライフル仕様であった。帰国後よく大人の人たちの空気銃と比較されたが、子供用のドイツ製空気銃の方がかなり性能も上位であった。銃身も日本製とは異なり木製の部分も多く、スマートな形であった。ライフルなので風が吹いていても弾道がゆがまなかった。
母は日常生活で家族の面倒を見たり、ベルリンでの買い物、大使館行事へ参加したりと、慣れない環境で最初は大変だったろうと思う。ドイツ語もいつ勉強したか知らないが、よくこなしていたようだった。一人でドイツ語を使って買い物もしていたし、大使館員の家族達とも仲良くしていたようであった。
一方では毎日メードが来てくれていたので掃除、洗濯食事など家事は全部任せていたようだった。


<食事>
食事はやはり和食が懐かしく正義は寿司、味噌汁、漬け物など食べたかったが、実際はドイツ人の料理人が作る洋食ばかりであった。朝はパン、スープ、大きなソーセージ、イクラ、キャビヤ、バター、ジャムなどを主にいろいろ出されたが、特にソーセージは好きにはなれなかった。戦前でドイツに食糧が豊富にあったことを彷彿させる朝食のメニューである。
大使館の行事などでは和食の寿司なども出されたので、出かけるのが楽しみであった。正義は寿司が特に好きであった。「ジュース」類も好きだった。日本の祝日に合わせるように大使館では祝賀パーティーが催されたが、その時も子供達だけのテーブルがあって、彼らのために用意された料理に舌鼓を打った。
ベルリンではよく旅行にも連れて行ってもらったり、大使館の行事で家族がよばれたりすることも多かった。最初に覚えたドイツ語は、「ワッサーブリンゲンジー(お水をください)やダンクシェーン(ありがとう)、グーテンターク(こんにちは)、オフィーラセン(耳からこう聞こえたようであるが標準は“アウフ ビーダーゼーエン”=さようなら)」などである。
次のようなこともあった。正義が朝早く街に出かけると、歩道にガラスのかけらがいっぱい散乱している。これはユダヤ人の店がドイツの若者(ヒットラーユーゲント?)にやられていたと聞いた。
ゲッペルス宣伝相によって引き起こされた有名なユダヤ商店焼き打ち行為は、打ち砕かれたガラスが月明かりに照らされて、水晶のようにキラキラと光っていたので「水晶の夜事件(クリスタルナハト)」と呼ばれた。1938年11月9日の夜の事である。 正義が目にしたのはその翌朝の光景であろう。
そしてそのようなユダヤ人の店には入らないように注意された。正義にはその時は何故いけないのか分からなかった。特に表示はされていないが、ユダヤ人の店は何となく他の店との区別はできた。
またヒトラー総統はすごい人気で、街を車で通過するときなどは、一人残らず街頭に出て声援を送っていたように覚えている。東京に戻ってから日本軍の観兵式も見たが、それどころではない騒ぎだった。またドイツの若者がアクセサリーにまでヒトラーとかハーケンクロイツのマークを使ったりしていたのを見て、その人気は正義にも分かった。
当時の欧州邦人の写真を見ると、クリスマスの様子が多く残っている。今と比べれば格段に性能の良くないカメラでしかも暗い室内での撮影であるから、写真はどれも鮮明ではない。しかし記録に残したい気持ちを抑えがたいような、きれいな光景であったろうことは想像がつく。辻家の写真にもクリスマスのものが何枚か残っている。

1938年の辻家のクリスマス。バックは飾り付けられたクリスマスツリー。ドイツで迎えた一回だけのクリスマスであった。
東郷大使の長女、“東郷いせ”の回顧によればクリスマスの様子は次のようだ。
「12月24日の朝、モミの木は車庫から出され、居間に据えられる。その日は一日、家族総出でツリーの飾りつけにかかる。天井に届きそうな大きな木だから、大人の背丈の一倍半は優にある。飾りつけには必ず梯子が持ち出された。」
彼女よれば上から下へと何本もつららの様に垂れ下がるのは「ラメタ」という飾りだそうである。上の写真からも似た光景を見て取ることが出来る。
正義によればツリーにはラメタの他、テニスボールより少し小さい色付きガラスとか、星形の飾りもあり、日本に戻ってからも数回使用した。また復活祭(イースター)も当時家族で楽しんだイベントであった。
東郷大使の長女、“東郷いせ”の回顧によればクリスマスの様子は次のようだ。
「12月24日の朝、モミの木は車庫から出され、居間に据えられる。その日は一日、家族総出でツリーの飾りつけにかかる。天井に届きそうな大きな木だから、大人の背丈の一倍半は優にある。飾りつけには必ず梯子が持ち出された。」
彼女よれば上から下へと何本もつららの様に垂れ下がるのは「ラメタ」という飾りだそうである。上の写真からも似た光景を見て取ることが出来る。
正義によればツリーにはラメタの他、テニスボールより少し小さい色付きガラスとか、星形の飾りもあり、日本に戻ってからも数回使用した。また復活祭(イースター)も当時家族で楽しんだイベントであった。
第四部以上