<日本人学校>
正義はベルリンで日本人学校に通った。小学校二年生のクラスであった。冒頭の写真に写っている子供から判断しても、この時外交官の子息は他には通っていなかったようだ。家庭教師をつけたケースが多かったのであろう。
当時欧州で暮らした子供と日本人学校は私の一つの中心テーマで、これまでも取り上げてきた。(ベルリン、ローマ、コルティーナ)ここでも正義の記述を中心にその様子を再現してみる。
日本人学校はバベルスベルガー通り49番(Babelsberger Strase)にあり、辻家とは通り一本隔てただけである。よって学校へは正義は徒歩で通った。授業は午前中だけであったので、現在の日本人学校とは違い楽なもので、かつ楽しかった。小さな規定の弁当箱にバナナを詰めて持参し、それをおやつとして食べた。勉強もあまりというか、ほとんどしなかったという。
午後は市立公園へ出かけドイツの子供たちとよく遊んだ。冬になると雪が積もるので橇(そり)を持っていった。最初は滑れなかったがドイツの子供が手取り足取りしてよく教えてくれた。子供同士は言葉の壁も低く、すぐに仲良くなった。このように一日の多くを遊びの時間にあてていた毎日であった。
正義はベルリンで日本人学校に通った。小学校二年生のクラスであった。冒頭の写真に写っている子供から判断しても、この時外交官の子息は他には通っていなかったようだ。家庭教師をつけたケースが多かったのであろう。
当時欧州で暮らした子供と日本人学校は私の一つの中心テーマで、これまでも取り上げてきた。(ベルリン、ローマ、コルティーナ)ここでも正義の記述を中心にその様子を再現してみる。
日本人学校はバベルスベルガー通り49番(Babelsberger Strase)にあり、辻家とは通り一本隔てただけである。よって学校へは正義は徒歩で通った。授業は午前中だけであったので、現在の日本人学校とは違い楽なもので、かつ楽しかった。小さな規定の弁当箱にバナナを詰めて持参し、それをおやつとして食べた。勉強もあまりというか、ほとんどしなかったという。
午後は市立公園へ出かけドイツの子供たちとよく遊んだ。冬になると雪が積もるので橇(そり)を持っていった。最初は滑れなかったがドイツの子供が手取り足取りしてよく教えてくれた。子供同士は言葉の壁も低く、すぐに仲良くなった。このように一日の多くを遊びの時間にあてていた毎日であった。

加藤眞一郎さんの当時のサイン帳の表紙。

サイン帳に正義の書き残したメッセージ。
日本人の先生は4人いたが、体操はドイツ人の女の先生でやさしかった。日本語の勉強のために「毎日小学生新聞」が一月分ぐらいまとめて送られてきたが、あまり丁寧には読んでいなかった。
先述の東郷大使の娘“いせ”は大正12年(1923年)生まれ、当時15歳で中学3年生であるが、ベルリンでは「ほんの数人を集めて、ほとんど個人授業の様に勉強する日本人学校に通った」とある。中等部まであった日本人学校であるが、彼女が実際に通ったのかは他の資料からは確認できていない。
日本人の先生は4人いたが、体操はドイツ人の女の先生でやさしかった。日本語の勉強のために「毎日小学生新聞」が一月分ぐらいまとめて送られてきたが、あまり丁寧には読んでいなかった。
先述の東郷大使の娘“いせ”は大正12年(1923年)生まれ、当時15歳で中学3年生であるが、ベルリンでは「ほんの数人を集めて、ほとんど個人授業の様に勉強する日本人学校に通った」とある。中等部まであった日本人学校であるが、彼女が実際に通ったのかは他の資料からは確認できていない。

二年生の修了証書。日付にある1939年3月20日に正義はすでにモスクワにいるので、後から送られてきたのであろう。

樽井近義校長先生。「正義君」宛てになっている。修了証書と共に1939年5月3日に送られたのであろう。樽井は戦後「ヒトラー最後の十日間」や「第三帝国と宣伝 ゲッベルスの生涯」を翻訳するが、これらは今ではナチス関係の古典図書である。
次の写真に関して、正義は日本人学校前で撮られた写真と聞いていた。
その下の写真からそれは裏付けられる。大日本連合青年団が日本人学校を訪問した時のものである。良く見ると背後の鉄の飾りが全く同じである。
またこの写真を見た加藤さんは
「あ、僕のお袋が写っている!」と思わず声を上げた。中央の夫人である。さらに左端が綾井三井支店長婦人、右端より渡辺三菱支配人夫人、小島海軍武官夫人、加藤さんの母親で大倉商事支配人夫人と並んでいることを教えてくれた。最後に左から二人目、少し控えめに写っているのが正義の母親、静子である。
御主人の地位がそのまま婦人の地位となる時代であった。また外交官関係では辻家がほとんど唯一日本人学校に通っていたので、若い静子が代表として並んで写っているのであろう。また余談ながら小島夫人のご主人小島秀雄海軍武官はこの頃、東郷大使の追い出し工作に奔走していた。
次の写真に関して、正義は日本人学校前で撮られた写真と聞いていた。
その下の写真からそれは裏付けられる。大日本連合青年団が日本人学校を訪問した時のものである。良く見ると背後の鉄の飾りが全く同じである。
またこの写真を見た加藤さんは
「あ、僕のお袋が写っている!」と思わず声を上げた。中央の夫人である。さらに左端が綾井三井支店長婦人、右端より渡辺三菱支配人夫人、小島海軍武官夫人、加藤さんの母親で大倉商事支配人夫人と並んでいることを教えてくれた。最後に左から二人目、少し控えめに写っているのが正義の母親、静子である。
御主人の地位がそのまま婦人の地位となる時代であった。また外交官関係では辻家がほとんど唯一日本人学校に通っていたので、若い静子が代表として並んで写っているのであろう。また余談ながら小島夫人のご主人小島秀雄海軍武官はこの頃、東郷大使の追い出し工作に奔走していた。


2枚とも日本人学校前の写真
第三部以上
