光延東洋海軍武官一家が体験した戦時下の欧州は書籍化されました。
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<序>

下の母と子が写る写真には「海軍武官邸1945年3月20日ベルリン入り」という説明書きが付いている。写っているのは元駐イタリア光延東洋(みつのぶとうよう)海軍武官の妻豊子(トヨと呼ばれる)と子供たちである。ベルリンをほぼ包囲したソ連軍は、いつ市内に総攻撃をかけるかもしれないというヒトラーのドイツ帝国の末期に、イタリア武官の家族がなぜこのような場所にいたのであろうか?

光延海軍武官については、イタリアのパルチザンに襲われて戦死するという悲劇が、日本においてかなり知られている。本編ではその光延武官の足取りを新たな事実を含めて紹介する。しかし本編では主として光延武官の父親としての姿をとらえる。そして一家の子供らの視線で、欧州の戦争を見て行くものである。

筆者はすでに当時欧州にいた駐在員の子供の体験を主体に、「日本人小学生が体験した、戦前のドイツ」と「日本人小学生の体験した戦時下のイタリア」をこのホームページ上に紹介している。本編はその続編としてとらえるものである。
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<イタリアへ>

1897年生まれの光延東洋中佐(当時)は1940年2月7日付けで在イタリア日本大使館付き海軍武官を任ぜられた。そして同年5月2日、先任の平出英夫大佐と共に、天羽英二駐イタリア大使を訪問し、着任のあいさつをしている。この時の欧州赴任に際して特筆すべきは、光延武官は家族を帯同したことである。その家族は以下の通りだ。

妻トヨ、  (1908年生)
長女 孝子 (1930年生 当時10歳)
長男 旺洋 (1934年生 当時6歳)
次男 明洋 (1937年生 当時3歳)
厳密に言うと幼くして男の子を一人失っている。また1943年には七洋がイタリアで生まれている。

1939年9月にドイツがポーランドに攻め込んで以来、ドイツ、イギリス、フランスが交戦国となった。ドイツでは邦人の避難勧告も出され、駐在員の婦女子はほとんどが日本へ引き揚げた。フランスのマルセイユからイギリスに向かう日本郵船の照国丸が機雷に触れて沈んだのは同年11月21日のことである。非交戦国である日本の船も、戦災の危険に直面するようになった。
翌年になっても欧州からの邦人の帰国の波は続いた。1940年3月4日の朝日新聞には
「話題満載の榛名丸帰る。7つのお嬢さん、人形と女中を連れて帰国」と、7つの子供が親を残して一人で欧州から船で引き揚げる模様を伝えている。逆に欧州に向かう邦人は非常に限られた。

そんな中、天羽英二駐伊大使も日本にいる妻美代をローマに呼び寄せるべきか悩んでいた。そして1939年12月12日には来欧を見合わせるよう打電した。しかし最終的に美代は翌年2月2日の筥崎丸でナポリに向かった。そしてそれから1カ月半ほど経った3月16日、光延一家は白山丸に乗船したのであった。
 
 
幸いイタリアはまだ交戦国ではなかった上、外交官パスポートであれば保護も厚いので、家族の帯同が可能であったのであろう。また光延武官は家族と一緒に過ごしたいという気持ちが強かったとも言えるかもしれない。当時の日本郵船の配船表によると白山丸のナポリ到着は5月2日である。その日のうちにローマに着き天羽大使に挨拶したことになる。

それにしても欧州開戦直後、子供連れで航路、欧州に向かったのは筆者の調べた限りでは光延家ぐらいである。(翌年はシベリア鉄道を利用した外交官家族の赴任例がある)

この白山丸の航海に関し長女孝子さんは次のようなことを覚えている。
船は横浜から神戸に止まり次の門司では一泊する。最後の日本ということであろうか、その際に光延家は山口県の温泉に泊まった。旅館の仲居さんが夕食の献立表を持ってくると、武官は
「そういう客用ではなくて、君達が食べる魚がるだろう」と聞いた。中居さんが
「メバルがございます」と答えると、
「それを煮付けてきてくれ」と半ば命じるように言った。
これが光延家の最後に日本で口にした魚であった。そして戦後もずっと長女孝子さんはメバルが好物となった。

ナポリまでの約40日の航海中、慣れない洋食のコースで母親トヨはお腹を壊して寝込んでしまう。
そして船が赤道近くを通過するとき、恒例の赤道祭りではないが、なんと武官は羽織袴で顔を描いたお腹を出して、反っくり返り、おへそに煙草をくわえさせた踊りを乗客の前で披露した。いわゆる「へそ踊り」である。

孝子さんが戦後、光延武官の上司に当たるベルリン駐在であった阿部勝雄中将の遺族、信彦さんに書いた手紙には
「しかし阿部様は父親、光延東洋の広く(?)知られた、かくし芸などはご存じないのですね?本人が言う訳もなし、と私一人ニンマリしております。“へそ踊り”、“どじょうすくい”、、、etc
この話は家族のみが知らなくて、父が何故にローマへの航海の船室への手荷物には、絶対袴を入れろと言い張ったのか、母が悟りました時は、船室にこもって号泣したとか。」

ローマには先に清水盛明陸軍武官が着任したところであった。清水武官は三味線が自慢であった。
そこで二人の間では清水が三味線を鳴らしたら、光延がへそ踊りをするという申しあわせになっていたが、実現しなかったという。

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ローマの武官邸バルコニーにて 左から孝子、武官、明洋、トヨ、旺洋
 
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