『徳永太郎・下枝』は書籍化され、下記の本に収録されています。こちら
<序>
 
ドイツのベルリン北方七十キロに、ボイツェンブルクという寒村がある。観光地ではない。深い森に囲まれた、何もない地である。そんな村だが、日本人とはある繋がりを持っている。
 
今から五十年以上も前の戦時中、首都ベルリンに対する連合国の空襲は、容赦なく激しいものであった。駐在する日本の外交官が、耐え切れずに疎開場所として選らんだのが、この村の外れの小高い峰にある、ボイツェンブルク城であった。
 
村は戦後東独領となり、西側社会から遮断され、当時の城主一家も旧西ドイツに避難した。それが戦後四十五年経ち、東西ドイツが再び統一されると、かれらは戻ってきた。
 
城主の長男で、疎開中の日本人外交官とブリッジをしたこともあるフォン.アルニム伯を筆者は訪問し、当時の話を聞いた際、今も手紙を交換する唯一の日本人として、かれの口から出た名前は「徳永下枝(とくながしづえ)」という女性であった。夫は死亡しているという。
 
日本に戻って調べた所、彼女の夫である徳永太郎は、当時ベルリンに駐在した外交官の中でも、それほど高い地位にいた人物ではなかった。よって氏に関する記録は、ほとんど見つからない。とりあえず自分で撮影した城とアルニム伯の写真を、もらった住所に送った。すると反応は早かった。夫はすでに亡くなったと書いた後
「正面から向かって右の棟が自分の住居でした。アルニム伯の長男は、戦争で片足を失い、今は義足のはずです」と教えてくれた。

続けて筆者が
「当時の話を直接聞かせて欲しい」とお願いすると、快く了解する旨の返事が来た。
一九九四年の晩秋、鎌倉の自宅を訪問した。一九十二年生まれの下枝は、病気がちで入退院を繰り返すというが、元外交官夫人らしくある種の気品を保ち、記憶は鮮明であった。
 
その話に引き込まれた筆者は、裏付けを取るべく、早速六本木の外交史料館に出向きかび臭い書類の中から、徳永夫妻に関するものを捜した。さらにはスイスの公文書館まで足をのばした。見つけた史料を持込む度に、下枝も新たに思い出す話をしたり、書き送ってくれた。それらをまとめることで「日本人女性の欧州戦争体験」は比較的容易に出来あがった。
 
他方、当時無名な外交官であった夫徳永太郎についての調査は難航した。氏について書かれた書物はない。また戦時中の一時史料は、戦災、焼却といった理由から、皆無といっていいほど、日本には残っていない。幸いなことには欧米にある史料が、空白の部分を補ってくれる事がわかった。この史料については後ほど説明する。
 
それらの外交史料に残る、太郎の本省に宛てた電報目を通していくと、言論の自由のない時代でありながらも、自由主義的思想を持つ中堅外交官として、時代の趨勢である全体主義に距離を置き、精一杯の発言を東京に対してしていた事がわかる。それはまさに「ある日本人外交官の戦い」として、記録にとどめておく価値のあるものである。
 
本編はこうした徳永夫妻の二つの側面からの体験を中心に、戦時下のスイス邦人社会に焦点を当て、戦争、全体主義に直面したかれらの生き方を、検証するものである。
 
イメージ 1
 
ボイツェンブルク城 1994年 筆者撮影
 


<アメリカへ 一>
 
一九四一年の春、欧州ではヒトラーの仕掛けた戦争が始まってから、丸二年が経とうとしていた。一方その裏側の太平洋では、こじれた状況に陥った日本とアメリカが、和平に向けて最後の努力を続けている。

徳永下枝の夫である太郎は家に帰るなり突然
「今度ヨーロッパに行くことになったよ」と告げた。二十九歳の下枝は「はい」とだけ答えた。
その言葉を聞いた時の心境について聞くと、下枝はまだ若く、子供もいない。
「夫について行くという以外の選択は、頭の中になかったのでございます」と語る。

夫太郎は旧制福岡高等学校から東京帝国大学法学部を卒業後、一九三一年に外務省入省、キャリア組の外交官である。その太郎にスイス日本公使館、三等書記官勤務を命ずる辞令が出たのだった。
二人はすぐさま渡航旅券の申請をする。この時の書類は、東京飯倉の外務省外交史料館に残っている。申請日は同年六月二日である。
 
氏名 徳永太郎(欧州二課)
出生地及生年月日 福岡県 明治四十一年二月二十二日
赴任地 在瑞西(在スイスの当て字ー筆者)日本公使館
経由地 大連、満州里、シベリア、モスコー、伯林(ベルリンー筆者)
出発日取 七月八日
住所 東京市瀧野川区田端町四五
 
下枝のものもあるが、こちらは名前以外、全て空欄のままである。それも自筆ではなさそうだ。身内の外務省の人間ということで、太郎のも含め、同僚が形式的に出したのであろう。
 
申請書から判断すると、夫妻は七月八日に日本を発ち、朝鮮半島に渡り、欧州まではシベリア鉄道を利用する予定であった。しかし出発直前の六月二十二日、世界をあっといわせた独ソ戦が勃発する。
 
国境を接するドイツとソ連が戦争状態に入ったことで、シベリア鉄道を利用しての欧州入りは不可能となった。他方インド洋、スエズ運河を経由する伝統の欧州航路は、すでに閉鎖されている。徳永夫妻にとって唯一残された経路は、アメリカを回っていく方法だけとなった。
 
「外務省報」という当時の定期刊行物の、辞令の欄には太郎に関して
七月十四日 赴任の途次米国に立寄りを命ず。
七月十五日 赴任
と書かれている。
 
これに下枝の記憶と、日米間の船舶の記録を照らしてみると、二人は七月十八日に横浜を出航した日本郵船の定期旅客船浅間丸で、アメリカに向かったようだ。
 
日米航路もいつまで運行されるのかは、だれにも判らない。民間の海運業は、すでに海軍の指導下に置かれている。よって徳永夫妻を乗せた浅間丸が、アメリカに向け出航したことで、横浜の関係者は「やれやれ、これで戻って来るまでの一ヶ月、戦争はなさそうだ」とこっそり語り合う、切羽詰まった時代であった。
 
この時、浅間丸の乗組員であった井堀清三郎(いぼりせいざぶろう)の回想によれば、同船がハワイに向かって航海中の七月二十四日、ルーズベルト米国大統領が在米日本資産凍結令を発表する。これに対して日本の指導者層の間に、大きな動揺が起こった。アメリカが予想していた以上であった。
 
そして出港七日目、すでに日付変更線を越え、ハワイ海域に入っていた浅間丸に対しても、海軍から暗号電報が入った。
「米国は日本資産に対し凍結令を施行した。抑留の恐れあり。適宜所在をくらまして別命を待て!」
浅間丸は、通過したばかりの日付変更線を中心に、海洋を行きつ戻りつする。事情を知らされない船客は、不安な数日を過ごした。
 
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