『山路(重光)綾子さんの体験した戦時下の中欧』は書籍化されました。
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<プロローグ>
終戦後間もない1946年10月27日 上野の精養軒において一組の結婚式が行われた。
新郎は重光晶(しげみつあきら)。当時まだ若き外交官で、第二次世界大戦中に外務大臣を務め、終戦時に政府全権として降伏文書に調印した重光葵の甥である。新婦は山路綾子(やまじあやこ)。戦時中はウィーン総領事、次いでブルガリア公使を務めた山路章(やまじあきら)の長女である。

精養軒での結婚式
終戦から1年ほどしか経っていないこの時、結婚式場は少なく参列者も限られた簡素な結婚式であった。新郎は31歳、一方の新婦は1927年11月26日生まれで19歳にもなっていなかった。
二人は中立国スイスで終戦を迎えた。そして半年ほど前の1946年3月26日、日本敗戦により欧州からフィリピンのマニラを経由し、筑紫丸で引き揚げてきたばかりであった。
それから66年後の2012年11月、OAG(ドイツ東洋文化研究会)にて綾子さんは講演を行い、戦前、戦中の欧州、特にドイツ語圏での体験を語った。その語りはすべてドイツ語である。
「スイスで終戦を迎えた邦人が健在!」ということを知り、筆者はさっそく話を聞かせていただいた。2013年1月5日(土曜) のことである。
本編では渡欧から引き揚げに至るまでの足取りを、綾子さんの記憶をもとに、筆者の調べた史実を加えて再現するものである。ドイツ、イタリア等の邦人の動静はかなり筆者のホームページ「日瑞関係のページ」でも紹介してきたが、中欧は初めてであり、貴重な資料となるであろう。

2012年11月 OAGにて
<生い立ち>
綾子さんは生まれてからの幼少期をハンブルク(1928年から30年)、ベルリン(1930年から34年3月)で過ごす。乳母はドイツ人で、物心がついてからはドイツ語を使って生活をしたが、小さかった故、当時のことはあまり記憶に残っていない。
父山路章はドイツ語を専門とする外交官であった。母は澄子。その父親小森雄介は島津家家老の子息で、後藤新平の秘書官や大企業の重役を経験した政財界の重鎮であった。“麹町番町のご隠居”と呼ばれていた人物で、家には大川周明、孫文も出入りし、澄子さんは彼らの膝の上で遊んだという。こういう家庭で育った母親の影響か「自分はどちらかというと右翼」と綾子さんはやや自嘲気味に語る。
一家は1934年に日本に戻り、綾子さんは東京の白百合学園に小学校一年生から通った。フランス系のミッションスクールであったが、ドイツ人のシスターがいた。生まれて最初にドイツ語を覚え、次いで6歳から日本語を覚えることになったが、全く問題なかった。外国帰りという理由か、日本では今で言う“いじめ”にはあったと思っている。
1938年6月、家族で再び欧州に向かう。父親の次の赴任地はウィーンであった。初代総領事に任命されたのである。
欧州に向かう船に乗り込んだのは山路章(総領事)
澄子(母)
綾子(長女)1927年生まれ
陽子(次女) 1929年生まれ
晴久(次男) 1934年生まれ
の家族五名である。長男は教育の関係で日本に留まった。彼とは8年別れ別れになったし、日本では兵隊にも取られ、多くの苦労をした。またウィーンでは三男の弘行が1941年に生まれている。

右端が日本に残った長男、続いて山路総領事、晴久、綾子、陽子 後ろが母澄子
欧州に向かった船は綾子さんの目から見ると、多くの当時の渡欧者が語るような“豪華船”ではなかった。記憶では客船ではなく、貨客船の伏見丸である。確かに約1万トンの伏見丸は、当時最先端の1万7千トンの浅間丸クラスに比べると大きさでも劣っている。
日本郵船の配船表によれば伏見丸は6月19日に横浜を出港し、7月30日ナポリに着く。その後は鉄路でウィーンに向かったと思われる。途中では停泊する港毎に、一家は船を下り観光をした。船は石炭を積むのに時間を要したからである。ポートサイド(エジプト)ではラクダに乗る体験もした。

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