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<一九四四年>
一九四四年の一月一日に関しては朝日新聞の守山義雄の日記が残っている。
「戦時下第五回目の正月。除夜から新年にかけて、独逸に(それを祝う)形式なし。破壊された町に雪ふり出す。しかし積もらず。暖かし。ヒットラー長文布告、神の慈悲にすがらんとせざるところ、彼らしくてよろし。 終日蟄居す。深更二:三十空襲あり。元旦早々地下室通いは本年の多難を思わす。防空監視人レオの生意気、軍人の無礼、今年はまた嫌なところを沢山見せつけられるならん。」 一月十九日にはこんなことも書いている。 「鶏の水たき。虎屋のヨーカン。日本に帰れる如し。伊太利より石井君ベルリンに転勤し来り来訪。」 虎屋の羊羹はこの頃どうやってドイツに届いたのであろうか? 一月二十四日に日本人が開催される。 「日本人会理事会。在日独人らに三割乃至十割食料増加。河原、湯本両氏と記者団。復興外貨一万円請求決議」と守山は書く。 日本に住むドイツ人への食料配給が増えたそうだから、こちらでも同様の処置が邦人にとられるものと期待したのであろう。最後の復興外貨一万円とは、空襲で被害にあったベルリン邦人への見舞金を日本人会として本国に請求するということあろうか? 二月八日、珍しく日本への手紙を運んでくれる渡航者がいたため、同盟通信の江尻は妻にベルリンの様子を書き記して送った。 「近ごろドイツでも空襲が相当激しくなり、ベルリンの日本大使館にも相当大きな爆弾が命中し、一部破壊されたが、地下壕が堅固なので、一人の怪我人も出なかった。一般邦人も十分空襲に備えているので、今のところ死傷者は出ていない。 最近日本人会がなかなか活躍し、外国から衣料品や食料などを輸入し、配給してくれるので、それだけもらっていてもだいたい生活には事欠かぬありさまである。邦人も毎日の仕事であまり市内にいる必要のない人は、郊外に避難している。 僕も空襲の度ごとに市内に数基ある防空要塞に入ることをやめて、二月下旬までにベルリンの東方四十キロの田舎の部屋を借りることにした。ベルリンとの中間の場所に自転車を置き、市内の交通機関が止った時も、事務所に出られるようにするつもりである。」 前年の夏には気の動転した江尻も少し落ち着いた。 また昨年からの空襲で陸軍武官室の建物のかなりの部分がやられてしまった。そこで陸軍武官室は大使館に機能の一部を移した。また海軍武官室も二階の事務室に使っていた部分が大部分焼け落ちてしまった。そこで一部を郊外のシャルロッテンベルクのベルリーナ通り九十三番地に移した。 もう事務所として使える建物などベルリンにはほとんど残っていなかった。海軍武官室が空襲から無傷の建物に移れたのは、ドイツ海軍省の尽力の結果であった。しかしカイザー通りの建物も作りが立派で、地下室もしっかりしているので、当直を置いて管理を続けた。 <荒廃するベルリン>
三月十六日、潜水艦によって日本から赴任してきた海軍グループがベルリンのポツダム駅に到着する。制海権を握られ、哨戒の厳しい海域を通って伊号第二十九号潜水艦が、フランスの軍港ロリアンに着いたことはまさに快挙であった。 一行には新任海軍武官として赴任してきた小島秀雄少将も交じっていた。武官室で簡単な歓迎の午餐会が催された。ドイツにおける海軍の最高責任者自らが、危険を伴う航海に身を委ねた。小島は二度目の駐独武官勤務で、前回は陸軍の大島と共に、東郷大使の交代に積極的に加担した人物であった。しかし今回、小島の目にしたベルリンはかつてのとはまったく違っていた。 この潜水艦で日本へ帰国する花岡実業は日記の四月十三日の欄に、荒れ果てたベルリンについてこう書いている。 「ベルリンは晴れ渡っていた。シャロッテンブルク一帯は見渡す限り灰色の瓦礫の野原と化していた。崩れ残った建物の外廓や防火壁や煙突がわびしい影を落としている以外には人影も稀だった。これがかつて、その伝統、威容、秩序と完璧の防空設備を世界に誇った近代首都の変わり果てた姿だった。 ![]() 空襲後の海軍武官室。 阿部信彦さん提供。 この廃虚に奇跡のように残っているこの建物が、英国機の執拗な爆撃に全てを焼き尽くされた日本海軍ドイツ駐在員の最後の拠点で、一同は日ごとに募る困難と闘いながら、本国への情報連絡に最後のあがきをしていた。 この日も私は事務所の三階からしみじみとあたりを見下ろしていた。この町には全く親身にも及ばぬ世話にあずかった公私の知人が、今夜も襲ってくるかも知れない爆弾の絨毯下に戦っている。しかも私は彼ら、彼女らの前に一言の挨拶も残さずに本日忽然と姿を消さなければならない」 海軍軍人にとって潜水艦で帰国すると言うことは誰にも口外してはならない極秘事項であった。よってかれらは下宿の女主人に「ちょっとパリまで出張に行ってくる」と言い残してトランク以外の荷物を残したまま、潜水艦に乗り込んだ。 小島少将と同じ潜水艦で着任してきた田丸直吉海軍技師は大使館の様子をこう書いている。 「四月二十九日の天長節は大使館で式典が行われるというので、初めて日本大使館に出掛けた。大日本帝国の出先代表機関であるだけに、菊のご紋章のついた建物もなかなか堂々たるもので、その中の大広間で式典は厳粛に行われた。 陸軍出の大島大使も立派な体格で、ドイツに滞在する日本国民はすべからく自分を頼りにすべし、といった自負に満ちた表情を見せていた。式後にお酒が出てこのよき日を祝った」 しかしドイツの現状を外交官はどう見ているかと田丸が探りを入れると、大事なところではみな口を噤んでしまう。大使に気兼ねしているようであった。 |
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<国際結婚>
ナチスは人種政策としてアーリア人至上主義を唱えるものの、同盟関係を結ぶ日本人に関しては名誉白人といった都合の良い呼び方をしたが、本質は変わらなかった。 つまり長年にわたって日本人とドイツ人の国際結婚は認められなかった。例外は女優田中路子だけであった。彼女はオーストリアのコーヒー王ユリウス.マインルと離婚し、ドイツの国家的俳優デ.コーバと一九四一年五月に結婚しベルリン郊外に住んだ。ただしこれも大島大使がリッベントロップ外相に話して成り立った。そして条件として路子は不妊手術をさせられたと噂されたほどであった。 再び守山の日記に戻ると一九四四年一月七日 「S君の結婚問題。政治的理由ある場合にのみに許される。大使、外相会談によるのみ」 続いて十四日 「河原参事官にS君の結婚問題を話す。大使からリッベントロップ(外相)へは難しからんと」と邦人の結婚問題が書き残されている。 S君とは留学生で開戦後は大使館の嘱託となった千足高保(せんぞくたかやす)のことある。彼が下宿先の娘である亡命ロシア人リュミドラーとの結婚を望み大使館に結婚許可申請を出したのは前年十一月十五日のことであった。 それが正式な許可は三月上旬におりた。守山の日記にあるようにこの時期になって、ようやく大使館が何らかの合意をドイツの外務省と取り付けたのであろう。 そして千束の結婚に続いて幾人かの婚姻の届けが出される。朝日新聞の笹本駿二がザクセン州出身のイヴォンヌビュルガと、読売新聞に働く中山千郷がウトラリッチ.リーズロッテと結ばれた。なぜか報道関係者が多い。 またある軍人が「ドイツ手わが国の若者は下宿屋の娘とばかり結婚するのだ」と嘆いたという話があるほど、身近にいるドイツ女性との結婚が多かったようだ。 <パリ解放>
六月六日、連合軍が大挙してフランス西岸のノルマンディーに上陸した。ドイツにはそれを押し返すだけの飛行機も、戦車ももう備わっていない。間もなくして連合国は、大陸に反撃の橋頭堡を海岸に築くことに成功する。
そのニュースがベルリンに伝わった同夜、大島大使はドイツ宣伝省のリューレイ公使他をホテルアドロンに招待しての食事中であった。知らせを聞いた大島はドイツ人の手前か、何と上機嫌になった。ドイツ側のかねてからの説明通り 「これこそドイツが待ち望んでいた事態だ。敵軍に大打撃を与えるチャンス到来」と喝采したのであった。確かに上陸直後二十四時間は、ドイツ軍が上陸軍を水際で叩く事の出来る可能性を秘めていた。よって小松光彦陸軍武官も、戦局の好転を思わず神に祈願したが空しかった。 六月十二日、また日本人理事会が開催される。 「パリ同胞引き揚げ対策協議の理事会開催。戦闘機一台十万円献金する決議。陸軍か海軍か」 戦前、外交官の年収が八十円と言われた時代である。 ノルマンディー上陸の翌日、フランスの日本大使館は邦人にパリを引き揚げるよう早くも勧告する。しかしパリの邦人はドイツのとは気質が異なった。同地でラジウムの研究をしていた湯浅年子は引き揚げ勧告を受けたこの日 「私は、もはやこの戦争の行く末がわれわれの予想するものである以上、わざわざドイツまで行く気がしない。パリで、研究所へ通いながら、もし死ぬものなら死にたいと思う。 大使館の人たちにはこの気持ちが通じない。日本人として、行動を共にするべきだと言う。非国民的行為だという。しかし、ドイツへ逃げて、戦争の終るまで何もしないでいるのが、はたして祖国のためになる事であろうか。」 その後八月に入りパリの解放が迫ると、大使館は嫌がる邦人も拝み倒して、ベルリンに連れてくる。湯浅のほかにバイオリニストとして名高い諏訪根自子などもいた。ただしフランス人と結婚していた数名の画家などは、“それでも”とパリに居座った。 そしてベルリンに逃げてきた邦人のほとんどは、予想通りすることもなく東部のブリュッケンベルクと言う片田舎の町に疎開した。 第十部以上
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