<空襲激化>
一九四三年の元旦、陸軍よりベルリンに派遣されていた大谷修少将は日記にこう記す。
「(金) 陰曇(+3°) 神棚も無く御神酒もなき西洋の正月は、柏手打つこともならず、只長年肌身離さぬ御守を押載きて、遥かの故国の神々祖先の霊に祈る。まず第一に祈願する所は、妻子の健在幸福にして、次に吾身の無事幸運とご奉公の完カランことを祈る(ママ)
「(金) 陰曇(+3°) 神棚も無く御神酒もなき西洋の正月は、柏手打つこともならず、只長年肌身離さぬ御守を押載きて、遥かの故国の神々祖先の霊に祈る。まず第一に祈願する所は、妻子の健在幸福にして、次に吾身の無事幸運とご奉公の完カランことを祈る(ママ)
この日、邦人は正装して大使館に向かった。正午からは拝賀式である。留学生桑木はダーレムの地下鉄駅で同じく留学生である千足高保に会い、途中では乗りこんできた田中路子夫人とバイオリニストの諏訪根自子も一緒になった。
出席者は二百名あまりであった。プロトコル(大使秘書のことー筆者)の新関欽哉官補がきびきび取り仕切り、御真影を拝賀し君が代斉唱の後、立食パーティーとなった。そこには握り飯、ぼた餅、赤飯、最中などの日本の食べ物が出された。
この年に入ると、連合国空軍はベルリン空襲を再開させた。開戦後間もなくドイツのロンドン爆撃に対抗する形でおこなわれたベルリン空襲は、被害の多さから一時中断されていた。それが形勢の逆転とともに再開されたのである。
一月十七日、桑木があけぼ乃で夕食を取り、雑談をしていたら警報が鳴った。牛場信彦書記官とともに大使館まで行き、堅牢な地下壕に潜んだ。大島大使夫妻と電信係の人を加えて、七時半から三時間ばかりの篭城となった。
一月三十一日、スターリングラードの第六軍がソ連軍に降伏する。今日独ソ戦の転換点といわれるドイツの大敗北であった。当時の軍人でもドイツの危機を感じる人がいた。先の大谷少将は同日、日記に
「実に独乙の危機なり」と記した。
二月十一日は紀元節である。午前十一時より大使館にて御真影の拝賀式が行なわれた。大使は
「本年は世界の各地に決戦行わるべし。独軍の戦況余り華々しからずも、必ずや反撃の機会あるべし。国民総動員にて吾らの生活に不自由来るべきも、共に苦しむ精神により最後の勝利を期待せん」
と挨拶した。枢軸軍の劣勢は大使も認めざるを得なかったのであろう。
二月十三日、昨年末に日本を発った若い外交官一行がベルリンに到着した。かれらは日本とは中立関係のソ連の通過ビザを取得して、トルコを経由してベルリンに入る。日本参戦後は日独間の往来は実質不可能であったので、非常に珍しい訪問者であった。
その一人である高橋保官補は
「午前十時、ドイツのズー駅に着く。(略)昼、夜、あけぼ乃という日本料理店で飯を食う」と日記に書き、その後も食事の記述が続く。
二月十四日 昼またあけぼ乃に西村官補と飯を食うことになる。
二月十五日 昼、ぶらぶらと、とある食堂にて食う。一マルク六十セントの飯、美味くなし。これを食っている一般市民に同情多し。夜七時半、大島大使官邸にて御馳走になる。(略)その後大サロンに入って、いよいよ東京、日本の情勢について聞かれる。
二月十六日 問題の小室商務書記官に会う。東洋館にて食事を共にして大いに論ず。
このように高橋はこの後赴任地フランスに向かう前、材料の乏しくなってきた日本食堂を毎日はしごした。そして食堂に居合わせた邦人は、最新の情報を持つ邦人周りに自然と集まって話を聞いた。日本食堂は最新の情報を得ることの出来る場所であった。
三月一日の夜、初のベルリン大空襲が行われた。わずか四十五分ばかりの間に約百五十機のランカスター機が、市の南西の住宅街を広範囲に急襲して、町を火の海と化した。スターリングラードで気を落としているドイツ人に、追い討ちをかけるように襲いかかる連夜の大空襲の発端であった。
大使館ではこの夜、スイスから転任して来た徳永太郎の歓迎会がおこなわれていた。そこに空襲警報が入り、皆地下壕に逃げ込んだ。大使館の壕は一メートルの厚さのコンクリートで覆われており、直撃弾を受けても大丈夫と言われていた。
空襲が去って部屋に戻ると、「大変です。徳永さんの家も焼けました」と報告があった。到着後置いただけの荷物はほとんど焼けてしまった。
その二、三日後、爆弾が大使館から遠くない方角に地響きがしたかと思うと、爆弾はウィルメルスドルフ地区アイゼナッハ通りに落ちた。すぐ近くの日本人会の食堂は、ガス、水道が止って当分の間休業を余儀なくされた。
出席者は二百名あまりであった。プロトコル(大使秘書のことー筆者)の新関欽哉官補がきびきび取り仕切り、御真影を拝賀し君が代斉唱の後、立食パーティーとなった。そこには握り飯、ぼた餅、赤飯、最中などの日本の食べ物が出された。
この年に入ると、連合国空軍はベルリン空襲を再開させた。開戦後間もなくドイツのロンドン爆撃に対抗する形でおこなわれたベルリン空襲は、被害の多さから一時中断されていた。それが形勢の逆転とともに再開されたのである。
一月十七日、桑木があけぼ乃で夕食を取り、雑談をしていたら警報が鳴った。牛場信彦書記官とともに大使館まで行き、堅牢な地下壕に潜んだ。大島大使夫妻と電信係の人を加えて、七時半から三時間ばかりの篭城となった。
一月三十一日、スターリングラードの第六軍がソ連軍に降伏する。今日独ソ戦の転換点といわれるドイツの大敗北であった。当時の軍人でもドイツの危機を感じる人がいた。先の大谷少将は同日、日記に
「実に独乙の危機なり」と記した。
二月十一日は紀元節である。午前十一時より大使館にて御真影の拝賀式が行なわれた。大使は
「本年は世界の各地に決戦行わるべし。独軍の戦況余り華々しからずも、必ずや反撃の機会あるべし。国民総動員にて吾らの生活に不自由来るべきも、共に苦しむ精神により最後の勝利を期待せん」
と挨拶した。枢軸軍の劣勢は大使も認めざるを得なかったのであろう。
二月十三日、昨年末に日本を発った若い外交官一行がベルリンに到着した。かれらは日本とは中立関係のソ連の通過ビザを取得して、トルコを経由してベルリンに入る。日本参戦後は日独間の往来は実質不可能であったので、非常に珍しい訪問者であった。
その一人である高橋保官補は
「午前十時、ドイツのズー駅に着く。(略)昼、夜、あけぼ乃という日本料理店で飯を食う」と日記に書き、その後も食事の記述が続く。
二月十四日 昼またあけぼ乃に西村官補と飯を食うことになる。
二月十五日 昼、ぶらぶらと、とある食堂にて食う。一マルク六十セントの飯、美味くなし。これを食っている一般市民に同情多し。夜七時半、大島大使官邸にて御馳走になる。(略)その後大サロンに入って、いよいよ東京、日本の情勢について聞かれる。
二月十六日 問題の小室商務書記官に会う。東洋館にて食事を共にして大いに論ず。
このように高橋はこの後赴任地フランスに向かう前、材料の乏しくなってきた日本食堂を毎日はしごした。そして食堂に居合わせた邦人は、最新の情報を持つ邦人周りに自然と集まって話を聞いた。日本食堂は最新の情報を得ることの出来る場所であった。
三月一日の夜、初のベルリン大空襲が行われた。わずか四十五分ばかりの間に約百五十機のランカスター機が、市の南西の住宅街を広範囲に急襲して、町を火の海と化した。スターリングラードで気を落としているドイツ人に、追い討ちをかけるように襲いかかる連夜の大空襲の発端であった。
大使館ではこの夜、スイスから転任して来た徳永太郎の歓迎会がおこなわれていた。そこに空襲警報が入り、皆地下壕に逃げ込んだ。大使館の壕は一メートルの厚さのコンクリートで覆われており、直撃弾を受けても大丈夫と言われていた。
空襲が去って部屋に戻ると、「大変です。徳永さんの家も焼けました」と報告があった。到着後置いただけの荷物はほとんど焼けてしまった。
その二、三日後、爆弾が大使館から遠くない方角に地響きがしたかと思うと、爆弾はウィルメルスドルフ地区アイゼナッハ通りに落ちた。すぐ近くの日本人会の食堂は、ガス、水道が止って当分の間休業を余儀なくされた。
<手料理>
あけぼ乃の日本食より喜ばれたのは駐在者の夫人による手料理であった。しかし戦争前に女性のほとんどが日本に引き揚げたため、もうありつける機会は少なかった。この頃の外交官の一番の楽しみは女優田中路子邸のパーティーであった。
あけぼ乃の日本食より喜ばれたのは駐在者の夫人による手料理であった。しかし戦争前に女性のほとんどが日本に引き揚げたため、もうありつける機会は少なかった。この頃の外交官の一番の楽しみは女優田中路子邸のパーティーであった。
歌手としても名高い田中はドイツ人人気俳優のデコーバと結婚し、ベルリン郊外の邸宅に住んでいた。大使館員は度々そこに招かれ、手料理による日本料理や、お汁粉などにあやかった。大使館では駐在員用に日本人にあう米を北イタリアから輸入していたが、それをドイツ国籍の路子にも分けていたのは返礼の意味でもあったようだ。また戦争末期には日本料理屋は一軒もなくなるが、そうなると唯一の手料理にあやかれる場所であった。
もう一つは冒頭に藤山も書いた徳永邸であったが、こちらは筆者は別の「徳永太郎・下枝」に書いたので省略する。
四月十八日、十余名からなる邦人グループが、日本からベルリンに着く。二十二日、桑木はあけぼ乃で文部省から派遣された犬丸秀雄と、洋書の調査に来た丸善の中村春太郎に会った。早速日本の最新事情を聞くが、短波放送では入ってこない日本の物資の欠乏の状況を聞き、びっくりしたのであった。
五月一日
ドイツ「ナチ」労働党の国家記念日に、大島大使以下主要外交官軍人は、打ち揃って自動車を並べ,総統官邸に祝賀記帳に行く。青葉の茂るティアガルテンよりブランデンブルグ門を経て、ウンテルデンリンゲンを六~七台日章旗を立てて早朝に走る威観は、車上の邦人にとっては一生の思い出となる出来事であった。街行く人々足を止め「ヤパーナー」(日本人―筆者)「ヤーパン」(日本)と呼びかけた。
七月二十二日、大谷は書く。
毎日良き天気なり。日本人倶楽部(会)にて食事すれば、三月頃の日日新聞(今の毎日新聞-筆者)来あり。珍しく読む。
日本の新聞は数ヶ月遅れでしか来なくなった。
もう一つは冒頭に藤山も書いた徳永邸であったが、こちらは筆者は別の「徳永太郎・下枝」に書いたので省略する。
四月十八日、十余名からなる邦人グループが、日本からベルリンに着く。二十二日、桑木はあけぼ乃で文部省から派遣された犬丸秀雄と、洋書の調査に来た丸善の中村春太郎に会った。早速日本の最新事情を聞くが、短波放送では入ってこない日本の物資の欠乏の状況を聞き、びっくりしたのであった。
五月一日
ドイツ「ナチ」労働党の国家記念日に、大島大使以下主要外交官軍人は、打ち揃って自動車を並べ,総統官邸に祝賀記帳に行く。青葉の茂るティアガルテンよりブランデンブルグ門を経て、ウンテルデンリンゲンを六~七台日章旗を立てて早朝に走る威観は、車上の邦人にとっては一生の思い出となる出来事であった。街行く人々足を止め「ヤパーナー」(日本人―筆者)「ヤーパン」(日本)と呼びかけた。
七月二十二日、大谷は書く。
毎日良き天気なり。日本人倶楽部(会)にて食事すれば、三月頃の日日新聞(今の毎日新聞-筆者)来あり。珍しく読む。
日本の新聞は数ヶ月遅れでしか来なくなった。
<浮き足立つ邦人>
一九四三年七月末、ハンブルクは九日間に六回連続して空襲を受けた。それからに二、三日した夕方、日本楽器の駐在員佐貫亦男は日本人会の食堂で同盟通信社の支局長江尻進に会った。
彼は食卓に身動きもせずに座っていた。卓上にはまだ何も料理が置かれていない。佐貫は声をかけて江尻の前の椅子に腰を下ろすと、彼は顔を金属のように硬化させて、眼鏡の奥に憤りをこめながら言った。
「ハンブルクはもうないも同然の破壊だ。あんな空襲を受けたら防ぐ方法は全然ない。敵は金属の箔を撒いて電探を無力にし、高射砲陣地を空雷で吹き飛ばしてから。ゆうゆうと低空飛行で爆弾の絨毯を敷いていくのだ。ハンブルクの死人は八万から九万と言うぞ。
ベルリンにも近いうちにきっと来る。間違いない。絶対だ。君もすぐに避難先を探せ。国鉄電車の終点ぐらいでは危ない。うんと遠いところに行くんだ!」
江尻の話には半信半疑であったものの、佐貫も慌てて疎開先を探しはじめた。日本人会で作ってもらった握り飯を持って毎日のように歩き回ったが、一斉に疎開が始まったベルリンでは見つからなかった。
八月六日 「イタリアでは独裁者ムッソリーニが退いてバドリオ元帥が代わった」と小さく新聞に出た。混乱した頭で佐貫が日本人会に行くと、談話室で顔を合せた日本郵船の山田正市という中年社員が、小さい目を神経質に瞬きさせながら話しかけてきた。
「ローマはもう英兵が入っているそうです。さっきイタリア大使館の前を通ったら、避難のために逃げ込むイタリア人が大分いましたよ。私もいざというときは日本大使館に駆け込むつもりで、よく様子を見て来たのです」
イタリア大使館は日本大使館の隣にあった。
手をもみながら語る山田の声は震えていた。そばにいた古河電気の北島正元も同調し始めた。北島は同盟の支局に入り浸っていた。
佐貫が「馬鹿に早耳だね。また同盟か?」というと北島は
「僕はBBC放送を頼りにしているんだ。一番確かだな。ドイツこそ嘘つきだ、この四月の潜水艦の大損害を隠していて。もう米国の護送船団は安全に通っているんだ」等と英国を誉め始めた。するとロンドンに長くいた山田は北島の話を受けて
「英国の政治家はみな金があるから、気品があって、嘘を言いませんね。そこへいくと、日本の政治家は貧乏だから、ろくな仕事ができないのです。日本人が馬鹿にされるのはこのためでしょう。日本人はジャップと呼ばれると腹を立てるが、それは自分が悪いからなので、英国人は別に軽蔑するつもりでそう呼ぶわけではない」
日本人同志の会話も戦局の悪化と共に、ぎすぎすしてきた。
八月に入るとイタリアに連合軍が実際に上陸する。あらゆる戦線の形勢の不利は在留邦人の心理にも当然影響して来た。夜毎の軍人の暇つぶしのポーカーの掛け金も上がっていき、ある晩は千二百マルクの受け渡しがあったという。日本の中流サラリーマンの一年分の給料に相当する額であった。
一九四三年七月末、ハンブルクは九日間に六回連続して空襲を受けた。それからに二、三日した夕方、日本楽器の駐在員佐貫亦男は日本人会の食堂で同盟通信社の支局長江尻進に会った。
彼は食卓に身動きもせずに座っていた。卓上にはまだ何も料理が置かれていない。佐貫は声をかけて江尻の前の椅子に腰を下ろすと、彼は顔を金属のように硬化させて、眼鏡の奥に憤りをこめながら言った。
「ハンブルクはもうないも同然の破壊だ。あんな空襲を受けたら防ぐ方法は全然ない。敵は金属の箔を撒いて電探を無力にし、高射砲陣地を空雷で吹き飛ばしてから。ゆうゆうと低空飛行で爆弾の絨毯を敷いていくのだ。ハンブルクの死人は八万から九万と言うぞ。
ベルリンにも近いうちにきっと来る。間違いない。絶対だ。君もすぐに避難先を探せ。国鉄電車の終点ぐらいでは危ない。うんと遠いところに行くんだ!」
江尻の話には半信半疑であったものの、佐貫も慌てて疎開先を探しはじめた。日本人会で作ってもらった握り飯を持って毎日のように歩き回ったが、一斉に疎開が始まったベルリンでは見つからなかった。
八月六日 「イタリアでは独裁者ムッソリーニが退いてバドリオ元帥が代わった」と小さく新聞に出た。混乱した頭で佐貫が日本人会に行くと、談話室で顔を合せた日本郵船の山田正市という中年社員が、小さい目を神経質に瞬きさせながら話しかけてきた。
「ローマはもう英兵が入っているそうです。さっきイタリア大使館の前を通ったら、避難のために逃げ込むイタリア人が大分いましたよ。私もいざというときは日本大使館に駆け込むつもりで、よく様子を見て来たのです」
イタリア大使館は日本大使館の隣にあった。
手をもみながら語る山田の声は震えていた。そばにいた古河電気の北島正元も同調し始めた。北島は同盟の支局に入り浸っていた。
佐貫が「馬鹿に早耳だね。また同盟か?」というと北島は
「僕はBBC放送を頼りにしているんだ。一番確かだな。ドイツこそ嘘つきだ、この四月の潜水艦の大損害を隠していて。もう米国の護送船団は安全に通っているんだ」等と英国を誉め始めた。するとロンドンに長くいた山田は北島の話を受けて
「英国の政治家はみな金があるから、気品があって、嘘を言いませんね。そこへいくと、日本の政治家は貧乏だから、ろくな仕事ができないのです。日本人が馬鹿にされるのはこのためでしょう。日本人はジャップと呼ばれると腹を立てるが、それは自分が悪いからなので、英国人は別に軽蔑するつもりでそう呼ぶわけではない」
日本人同志の会話も戦局の悪化と共に、ぎすぎすしてきた。
八月に入るとイタリアに連合軍が実際に上陸する。あらゆる戦線の形勢の不利は在留邦人の心理にも当然影響して来た。夜毎の軍人の暇つぶしのポーカーの掛け金も上がっていき、ある晩は千二百マルクの受け渡しがあったという。日本の中流サラリーマンの一年分の給料に相当する額であった。
<日本?負けるね!>
留学生篠原正瑛は回想する。
「開戦後在留邦人の中で最初から戦争が日本とドイツにとって勝算がないことをはっきりと見抜いていたのは、極めて少数の人たちであった。あるいは心の中では見抜いていたが、立場上はっきりと口に出して言えなかった人々も、かなりいたかも知れない。
留学生篠原正瑛は回想する。
「開戦後在留邦人の中で最初から戦争が日本とドイツにとって勝算がないことをはっきりと見抜いていたのは、極めて少数の人たちであった。あるいは心の中では見抜いていたが、立場上はっきりと口に出して言えなかった人々も、かなりいたかも知れない。
いずれにして、私自身もふくめて大部分の在留日本人は、心のどこかに不安を残しながらも、ある時期までは枢軸側の勝利を信じていたと思う。」
一九四三年の夏のことであった。篠原はあけぼ乃で偶然に朝日新聞の笠信太郎に会った。笠氏は日本において、進歩的文化人として軍部、特に陸軍ににらまれた。そこで同紙主筆である緒方竹虎の計らいでベルリンに逃れてきた。
「笠氏は中途半端な時間なのであまり客のいないあけぼ乃のテーブルの一隅に腰をかけて、洋酒らしいものをちびりちびりと飲んでいた。私は、たまたま居合わせた友人の紹介で笠氏と同じテーブルにすわって簡単な話をした。
その内容はいまではおぼえていないが、私が笠氏に向かって”枢軸側は勝つでしょうか”とぶしつけな質問をしたところ、ただ一言”負けるね”という冷ややかな答えがかえってきたことだけは、いまでもはっきりとおぼえている。」
すでに大島大使との関係の悪化していた笠は、この言葉を放って間もなくして、スイスに移り住む。そして日本の終戦間際には、祖国に向けてスイスの公使館から、和平勧告の電報を発信するのであった。
一九四三年の夏のことであった。篠原はあけぼ乃で偶然に朝日新聞の笠信太郎に会った。笠氏は日本において、進歩的文化人として軍部、特に陸軍ににらまれた。そこで同紙主筆である緒方竹虎の計らいでベルリンに逃れてきた。
「笠氏は中途半端な時間なのであまり客のいないあけぼ乃のテーブルの一隅に腰をかけて、洋酒らしいものをちびりちびりと飲んでいた。私は、たまたま居合わせた友人の紹介で笠氏と同じテーブルにすわって簡単な話をした。
その内容はいまではおぼえていないが、私が笠氏に向かって”枢軸側は勝つでしょうか”とぶしつけな質問をしたところ、ただ一言”負けるね”という冷ややかな答えがかえってきたことだけは、いまでもはっきりとおぼえている。」
すでに大島大使との関係の悪化していた笠は、この言葉を放って間もなくして、スイスに移り住む。そして日本の終戦間際には、祖国に向けてスイスの公使館から、和平勧告の電報を発信するのであった。
第七部以上
