<ベルリンの光>
松岡がベルリンを去って間もない四月十一日、留学生の桑木努はあけぼ乃に向かった。
「私の卒業した中学修猷館出身者で会合をやろうといっていたが、戦時下のヨーロッパ事情視察のためベルリン滞在中の笠信太郎氏(のちの朝日新聞主幹)を囲んで、医博の八田秋、古森善五郎両氏と私の四人に、父兄代表の遠城寺宗徳医博(のちの九大学長)を加えて四月十六日の晩あけぼので歓を尽くした。
校歌でない館歌、それも合唱ではなくてバラバラの斉唱でそれぞれ自己満足した後、八田さんと遠城寺さんを除いた三人で朝日新聞支局のあるホテルカイザーホーフに乗り込んで二次会をやったが、翌朝早くには仕事を始めていて、さすがと思った。」
六月二十二日、日本楽器の駐在員で飛行機の設計の専門家であった佐貫亦男は、同宿の日本人から独ソ開戦の知らせを聞いた。余りの重大さに椅子に座ったまま、しばらく身動きが出来なかった。英国も片付かない内に、この大作戦に突入していって、一体どうなるのであろうと考えると、全身が麻痺したようであった。
この日ラジオの前に立って「ソ連の中心部への反撃が始まった」と国民に訴えたのはヒトラーではなく、ゲッペルス宣伝相であった。食堂の卓から勢い込んでラジオの前に集まった同宿のドイツ人将校たちは、スピーカーから出る艶のある声を聞くと
「ゲッペルスだ」と吐きすてるように言って、ラジオの前を離れた。小柄な宣伝相をドイツの軍人は軽んじていたのであろう。街のドイツ人の顔にはどれも沈んだ表情が現われていた。新聞の見出しは「モスクワの裏切り者!」と市民を煽っているが、かれらに興奮したそぶりは見えなかった。
「ゲッペルスだ」と吐きすてるように言って、ラジオの前を離れた。小柄な宣伝相をドイツの軍人は軽んじていたのであろう。街のドイツ人の顔にはどれも沈んだ表情が現われていた。新聞の見出しは「モスクワの裏切り者!」と市民を煽っているが、かれらに興奮したそぶりは見えなかった。
邦人はこれでソ連の空襲がベルリンにもあるものと話し合った。また佐貫と同宿の東京工大の田辺平学は
「心配しなくてもよい。この戦いは冬までに終る。冬までに終らなければドイツの負けだから」とドイツ軍の短期勝利を予想した。
陸軍武官事務所は、ブームが到来した商社のように大陽気であった。民間人はそばへ寄れない鼻息であったという。
飯島正義陸軍中佐は「ソ連の野戦軍は支離滅裂になり、空中戦ではソ連の戦闘機さえも(ドイツのー筆者)ユンカース軽爆撃機に追いつけぬそうだ」と言ったあげく、
「そのうちドイツ軍はシベリアを手に収めて、日本と満州で国境を接するようになるよ。ノモンハンでソ連軍に悩まされた日本軍などドイツ軍に攻められたら、二週間で満州から追い出されるさ」
と事もなげに言い切った。ヒトラーですらも心がけた「勝って兜の緒を締めよ」の教えを彼らは忘れた。さらには
と事もなげに言い切った。ヒトラーですらも心がけた「勝って兜の緒を締めよ」の教えを彼らは忘れた。さらには
「なぜ日本は、ドイツを助けて参戦しないのか。早く参戦してソ連を背後から叩くべきだ」という声もかなり聞かれた。
その後ドイツ軍が進撃を続け、晩秋にはモスクワまであと数十キロの所までに迫った時
「ソ連全土を占領したドイツ軍とインド全土を占領した日本軍は、アフガニスタンに入って歴史的な握手を交わすのだそうだ。その時には、ベルリンにいる日本人留学生はドイツ軍についてアフガニスタンまで行って、通訳の役目をつとめることになるらしい」というまことしやかな情報まで流れた。
<ナイトライフ>
独身男性中心の邦人社会であったから、ベルリンにはかれらのための夜の顔もあった。あけぼ乃から二つ目の通りギーゼブレヒト通りに「カカドウ」というナイトクラブが営業していた。ここは開戦後は、ドイツ外務省によって運営される特殊な社交場であった。従ってゲッペルス宣伝相によってベルリン市内のナイトクラブの営業が禁止されても、ここだけは例外であった。
そしてことに日本人を対象とした場所であると言うことは、一部のベルリン市民の間でも知られていた。高級酒場としての表の顔とは別に、長期にベルリンに駐在する独身日本人に対して、現地妻として奉仕するドイツ女性を仲介する役割を果たしていたという。
同盟の江尻は先の松岡外相訪独時に、随員の一行をそこに案内することになった。まずは秘密の電話番号を回して「こちらは日本大使館の徳川家康だ」と名乗って受け付けを済ませた。本名を伏せたのであろう。
「そこは普通の住宅並みの飾り気のない部屋で、ワインを飲みながらの、美女たちとの静かな歓談である。響いてくる音楽は、落ち着いたクラシック。若いレディたちも、落ち着いた淑女という振る舞いである。いちゃいちゃする雰囲気ではない。それでも二週間の殺風景なシベリア鉄道の旅行で衝かれきった一行には、久し振りの息抜きになったようである。
その若い女性陣の一人に、背のスラリと高いひときわ目立ったチャーミングな美女がいた。その後分かったことだが、彼女はウィーンに定住し、時々ベルリンに来訪して外務省のためにサービスしているとのこと。さらに月に一度は外務省の命令で、軍用機でパリに飛び、外務省代表としてパリで重要任務についているアベッツ大使の慰問に出かけているとのことが分かった。(ドイツ)外務省にもなかなか行き届いた配慮があるものだなと、感心させられたものである。」
海軍遣独軍事視察団として一九四一年にベルリン入りした頼惇吾中佐は書いている。
「ベルリンももう最後だからと、松井機関中佐らと、カカドウというキャバレーに入った。ここは上品で気分が良いし、音楽も良く、ショー.ダンスも綺麗である。前からベルリンにいる人達は、ダンサーにも顔馴染があり、早速三、四人お相手に呼ばれた。中には日本語の歌を歌う人もあり、楽団はお愛嬌に”春高楼”や“軍艦マーチ”を演奏した。」
さすがにこうしたドイツ女性との一線を越えた付き合いを書き残す人はいないが、一九三八年十二月三日、天羽英二スイス公使は
「食後 Rio Rita及びKoenigin(で)会飲 三菱渡辺“ミッキー”で大モテ 女共宿所を示し盛んに誘惑 四時頃帰宅」と日記に書いている。
天羽の書くRio Rita(リオリタ)は、ベルリンで有数のナイトクラブであった。「ミッキー」は三菱商事支店長で日本人会会長の渡辺壽郎の愛称であろう。ちなみに駐在員は夜の女性に好かれる。一回限りの出張者と異なり、常連になる可能性があるからだ。そして日記にあるように、女性の部屋まで誘われることも当然あったであろう。
付け加えるとカカドウは三菱商事の御用達の店であった、と関係者の一人が証言している。支店長渡辺壽郎が日本に帰国する際には、貸切で盛大な歓送会が行われた。
天羽の書くRio Rita(リオリタ)は、ベルリンで有数のナイトクラブであった。「ミッキー」は三菱商事支店長で日本人会会長の渡辺壽郎の愛称であろう。ちなみに駐在員は夜の女性に好かれる。一回限りの出張者と異なり、常連になる可能性があるからだ。そして日記にあるように、女性の部屋まで誘われることも当然あったであろう。
付け加えるとカカドウは三菱商事の御用達の店であった、と関係者の一人が証言している。支店長渡辺壽郎が日本に帰国する際には、貸切で盛大な歓送会が行われた。
<日本参戦>
一九四一年十二月七日は日曜日であったが、大島大使と幹部は勤務についていた。大使が公邸に戻ったとき「日本海軍、ハワイの真珠湾攻撃」の報が入った。
時差の関係で欧州はまだ十二月七日であった。日本参戦の情報はベルリンの大使館には事前に知らされていなかった。大島は、ベルリン駐在の日本人特派員を急遽集めた。そして正面の階段をロビーまで下りてきて
「諸君お待たせした。急転直下おめでたいことになった。よく思い切ったことをやってくれた。わが帝国海軍が真珠湾の攻撃をやったのさ。おめでたい」としきりに「おめでたい」を繰り返した。
そしてドイツも十一日にアメリカに宣戦布告をし、欧州戦争が世界戦争へと発展したのであった。
そしてドイツも十一日にアメリカに宣戦布告をし、欧州戦争が世界戦争へと発展したのであった。
数日後には祝賀会が大使館で開かれた。奇襲作戦成功が伝えられたため、海軍の関係者が一番脚光を浴びた。横井忠雄海軍武官は席上「これで日本海軍は無敵になった」と強気な発言をしたが、本人は内心日本の将来に悲観的であったという。
<日本参戦後の邦人社会>
一九四二年四月の日本人会の名簿によれば、戦前に比べだいぶん減ったものの、二百九十九名の邦人がベルリンに滞在していた。実質日本との交通路が途絶え、足止め状態の滞在者は以下のようだった。
大使館には現地採用邦人を含めると四十五名が勤務した。陸軍武官事務所は四十六名で、内四名はビザを取得して帰国が決まっている。海軍武官事務所は三十一名の人員を擁した。
その他政府機関としては大蔵省財務官事務所、鉄道省伯林事務所、内務公館、満州国公使館、南満州鉄道欧州事務所、日本銀行伯林事務所、日本鉄鋼統制会伯林事務所があった。
その他政府機関としては大蔵省財務官事務所、鉄道省伯林事務所、内務公館、満州国公使館、南満州鉄道欧州事務所、日本銀行伯林事務所、日本鉄鋼統制会伯林事務所があった。
民間企業では三井物産が十八名、三菱商事十六名と続く。報道では朝日、毎日、同盟が日本からの特派員を配置し、読売、報知、中外商業新報(今日の日経)、国民新聞が現地採用で邦人特派員を置いていた。
またこのリストの邦人のうちウィルマース.ドルフ区ホーエンツォルレンダム二○五番地のペンション Kobe(神戸)を住所としている人が三名いる。ここは日本人を専門にした下宿屋であろうが、その一人は日本開戦直前の首相近衛文麿の実弟で音楽家の近衛秀麿である。またもう一人の住人は女優の澤静子(蘭子)で、二人は夫婦同然の関係であったようだ。欧州における近衛秀麿は、いろいろ話題が多かった。近衛暁子(あきこ)が秀麿滞欧中の一九四○年に誕生している。
またこのリストの邦人のうちウィルマース.ドルフ区ホーエンツォルレンダム二○五番地のペンション Kobe(神戸)を住所としている人が三名いる。ここは日本人を専門にした下宿屋であろうが、その一人は日本開戦直前の首相近衛文麿の実弟で音楽家の近衛秀麿である。またもう一人の住人は女優の澤静子(蘭子)で、二人は夫婦同然の関係であったようだ。欧州における近衛秀麿は、いろいろ話題が多かった。近衛暁子(あきこ)が秀麿滞欧中の一九四○年に誕生している。
地域別に見ると先に述べたようにベルリンが二百九十九名、総領事館もあったハンブルクが二十二名で、冒頭に述べた「河内屋」という日本食堂も依然営業していた。
同じく総領事館のあったウィーンはドイツに併合されていたが、十三名の邦人が暮らした。外交官のほかは留学生であった。他にはハイデルベルクに大学で学ぶものとその家族で四名、さらにライプチッヒ、イエナ、ゲッティンゲン、フライブルク、フランクフルトの各地にそれぞれ一名の留学生がいた。
ベルリンの街では、歩いていてラジオ店の前を通りかかると、急に日本の軍艦マーチか愛国行進曲のメロディーが響くようになった。それは日本軍の戦果を告げる特別ニュースの発表であった。海軍の時は軍艦マーチ、陸軍の時は愛国行進曲で始まる。
そのうちに、邦人もすっかり慣れっこになって、どちらかのメロディーが響いてくると”今度は海軍だな”とか”今日は陸軍か”といって、店の前に足を止めた。もちろんドイツ人も足を止めて、店の前は黒山の人だかりがすることもあった。
翌年早々シンガポールが陥落した時は、ベルリン中がたいへんなさわぎであった。この日一日日本人は地下鉄に乗っても、S-バーンに乗っても、改札口を通るたびに改札係から「シンガポール陥落、おめでとう」と、握手を求められた。ちょうどそのころ、ドイツはソ連戦の膠着で沈んでいたので、枢軸陣営の久し振りに明るいニュースで、喜んだのであった。
冒頭に紹介した会則に「講演会、親睦会その他の会合」 とあるように、日本人会では講演会が催されている。講師は駐在員の中から選ばれた。さまざまな分野の専門家には事欠かなかった。佐貫亦男が「追憶のドイツ」で、ある講演会の一部始終を書いている。
一九四二年暮、米軍がアルジェリアに上陸した頃、陸軍武官室の遠藤悦少佐が「光は東方より」という講演を日本人会でおこなった。彼の表現は文学的であると同時に、舞台の台詞のようにはっきりした印象を聞くものに与えた。
ただし陸軍事務所内では遠藤は語学将校と陰口を言われていた。実際遠藤少佐のドイツ語は卓越したものであったようだ。日独軍事協定の日本の案文をドイツ語に訳したのも遠藤であったが、締結の前にカイテル元帥がその案文を指しながら「このドイツ語はだれが書いたのだ。一語も間違いのない、また素晴らしい表現だ」と褒め称えた。
さてその日遠藤は
「軍人こそ真の日本勤労階級の代表者である。その証拠に、士官学校の入学者の親は、俸給生活者、小企業者、農民出身者で占められ、大企業家、大地主の子弟はほとんどいない」と述べ、続いてドイツの事情に議論を進めると、
「軍人こそ真の日本勤労階級の代表者である。その証拠に、士官学校の入学者の親は、俸給生活者、小企業者、農民出身者で占められ、大企業家、大地主の子弟はほとんどいない」と述べ、続いてドイツの事情に議論を進めると、
「ドイツ女性が思慮なく私生児を作り、これが人的資源として政府の保護を受けている」ことを批判した。さらにナチスの占領地における親衛隊の暴虐の話をした。
そして遠藤少佐は結論として
「このような内外の矛盾を包み、かつドイツの鉄と石炭がなければ欧州は存在しないと自負し、ゲーリングが言ったように、ドイツ国民は最後に餓える国民であるという無慈悲な政策の強行はついには破滅するであろう」と述べた。
第三帝国のナチスドイツはこうして滅亡し、これに代わるものは「偉大な家族国家日本」である。よって「光は東方より」であると結んだ。
中堅の軍人の典型的思想であろう。一方ドイツにいながらかなり大胆にドイツ批判をおこなっているのは興味深い。
講演後の質問に入ると、日本銀行の駐在員が、神経質に眼鏡を光らせて立ち上がった。リストによれば日銀からは山本米治と太田剛の二名が駐在していることになっているので、そのどちらかであろう。いつも腹を立てているような顔をしている人物であったという。唐突に
「独ソ戦の見通しについても、天才ヒトラーは予想してかかるべきだったのでなかったのですか?」と出席者の誰にもすぐわかる刺のある質問をした。年内に終わるはずであった独ソ戦だが、ソ連軍の反撃にあう始末であったからである。
しかしこの日の講演とはまったく関係のない質問であった。遠藤少佐がちょっと前に、フランス作戦に際して、軍人ヒトラーの功績を賞賛したことがある。それに対する言いがかりであった。少佐はそれまでの微笑みを含んだ表情を改め、唾を飲み込み答えた。
しかしこの日の講演とはまったく関係のない質問であった。遠藤少佐がちょっと前に、フランス作戦に際して、軍人ヒトラーの功績を賞賛したことがある。それに対する言いがかりであった。少佐はそれまでの微笑みを含んだ表情を改め、唾を飲み込み答えた。
「皆さんはドイツが負ければ、どういうことになるかご存知ですか?(連合軍の)北アフリカ上陸は大した事はないが、スターリングラードの形成は非常に重大です。ドイツ軍は包囲される危険があります」
遠藤の最後の発言にはさらなる副作用があった。それまでドイツの公式発表しか知らなかった民間人も、東部戦線でのドイツ軍の危機を感じ取ったのであった。

遠藤少佐の講演会を知らせる日本人会の通知 (これについての詳細は「語学将校 遠藤悦」参照)
戦争の長期化とともに、民間人と軍人の軋轢が高まってくる。大谷修少将の日記からは
一九四三年三月十日
第三十八回陸軍記念日 小松武官就任挨拶を兼ねてノレンドルフ(陸軍事務所)にて日本人のお茶会あり。酔うて商社小人と武官、石毛大佐との間に口論ありしとか。結局対陸軍の民間の空気悪しき一例なり。
一九四三年三月十日
第三十八回陸軍記念日 小松武官就任挨拶を兼ねてノレンドルフ(陸軍事務所)にて日本人のお茶会あり。酔うて商社小人と武官、石毛大佐との間に口論ありしとか。結局対陸軍の民間の空気悪しき一例なり。
三月三十日
夜は雨の中を昭和通商重役永井氏宅に招待せらる。小松少将と商社員の議論、後者に軍配を挙げて可。
夜は雨の中を昭和通商重役永井氏宅に招待せらる。小松少将と商社員の議論、後者に軍配を挙げて可。
三月三十一日
松島公使の許にて経済会議、海軍側の不快なる発言、何時もながら日本内部の不一致は困る。
松島公使の許にて経済会議、海軍側の不快なる発言、何時もながら日本内部の不一致は困る。
第六部以上