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<ヒトラー日本大使館訪問>
一九四○年九月二十七日、ドイツの相次ぐ勝利に幻惑されて、日本はドイツ.イタリアと三国同盟を締結し、明確に米英対決姿勢を強めた。来栖大使は前述のごとく夫人がアメリカ人で、ヒトラーの信頼は全くなかった。交渉は大使を抜いて進められ、かれは東京が決めた同盟を、ベルリンにおいてただ署名するだけであった。
十一月十五日、大使館での紀元二千六百年の記念式典に、ヒトラー総統が出席する。ヒトラーが、一国の大使館を訪問するのは異例のことである。新しい大使館の最高のこけら落としであった。来栖大使が先の三国同盟調印式の席上、直接招待して実現した。
大使館には出席者一同が会せるような大きなホールがなかったため、いくつかの部屋に分かれての食事となった。ヒトラーのために、この日は菜食主義者用のものが手配された。ところが大事な食事中、酒をのみ過ぎてヒトラーの前で戻してしまった日本人武官がいたという。その武官はいい気分になりドイツ語で「ヤー、ヤー」と言っているうちに反吐を吐き、ヒトラーが鼻をつまむ始末であった。これは読売新聞社の特派員であった嬉野満洲夫の回想からである。
ドイツの武官といえば陸軍は先述の岡本で、海軍は横井忠雄である。しかしこの二人は酒癖が悪いという記録はない。よってこの話が事実であったとしたら、それは補佐官レベルの誰かであったと思われる。
ただし岡本の後任となる坂西一良中将の酒癖の悪さは有名であった。ドイツ人も間もなくしてかれの本性を知ると忌み嫌い、決して酒席に同席しようとはしなかったという。よって読売の嬉野の記憶違いで、反吐を吐いたのは坂西で、それも別の機会であったのではないかと筆者は考える。
この頃スイス公使として日本からシベリア経由で赴任してきた三谷隆信はベルリンに立寄った。高級なホテル.エデンに投宿する。夜半にはイギリス機による空襲があった。ドイツ空軍機のロンドン空襲に対する報復であったが、被害はほとんどでなかった。
ちょうどこの時はモスクワからモロトフ外相がベルリンを訪問中であった。それに合わせてモスクワからは西春彦公使が、ベルリン入りしていた。西は大使館での記念式典にも参加したが、聞いた話では、ヒトラーはベルリン空襲に参加したイギリス機のうち、三機を撃墜したと言って非常にご機嫌であったという。 街を歩くと灯火管制下にもかかわらず、市の随一の繁華街クールフュルステンダム通りは人でごった返していた。三谷は感じた。
「都会人は暗夜でも外出する本能を持っているらしいが、通行人の人々の顔色はなかった。これが戦勝国民かと疑うような沈うつの気が、一帯に支配していた。」 フランスを占領し絶頂期のドイツであったが、ドイツ国民は本能的に早い平和を願っていた。年配の第一次大戦の経験者の間には、自軍の実力に信頼を置いていないものが依然多かった。
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<山下訪独>
一九四○年九月二十七日の日独伊三国同盟と、それに続く軍事同盟の締結を受けて、日本から陸海軍の軍人が多数ドイツに派遣された。陸軍は山下奉文中将を代表にして二十人余りが年末にシベリア鉄道でベルリンに入った。年が明けると海軍も浅香丸でやはり同数の軍人を送り込む。ベルリンの町にカーキ色の陸軍、濃紺の海軍それぞれの制服の日本軍人の姿が目立つようになった。
山下中将は、後にシンガポール攻略で名声を博し「マレーの虎」の異名を取る猛将である。ドイツ側も山下を日本の将来の首相候補と予想し、厚遇をはかった。一九四一年一月三十一日にはヒトラーと親衛隊の前を謁見し、そのまま会談をもった。
帰国後間もなくして山下は雑誌”改造”にその時の模様を書いている。
「眼前の総統は、写真で見るような凄さはなく、実にすっきりとした、静かな物腰で、流石に一国の元首の地位にある人と肯かせるに充分であった。あるいは一口に言えば、高僧と話をしている感じだった。元来が非常に精神主義の人で、戦争でも政治でも一切が高い道徳に基づいて行われねばならぬ、国際間の問題も同様の態度で律せられねばならぬということを強調しておられた」 当時の雑誌に出た内容をそのまま信じるのは問題もあるが、山下は帰国してもヒトラーとの会見の興奮から覚めやらぬようである。
一方当時ベルリンに滞在していた邦人の目に映った山下は、猛将とはかけ離れたイメージであった。かつてのドイツ駐在経験者も食事は年とともに日本食しか受け付けなくなっていた。 在独期間中は毎日曜日に小松陸軍武官補佐官(当時)の家を訪問し、日本食をねだった。またある夜、舞踏の留学生邦正美はあけぼ乃で日本食をとっていた。他の日本人客はいつものように食事が済むとさっさと引き上げてしまい、ゆっくり居残ったのは体格がよく、大きい目でにらむ中老の紳士と、邦だけであった。
「将棋をしませんか、ともちかけられた僕は将棋が出来ないので、五目並べのお相手をした。五目並べには自信があったが毎回連敗であった。
この紳士は時間が余って毎日困っている様子であった。ある日突然“僕は近く日本に帰ります”と言う。独ソ戦の直前である。最後のシベリア鉄道に乗れたらしい。この紳士が山下奉文という軍人であったことは知っていたけれども、後に太平洋戦争で勇名を轟かせることになる将軍だとは知る由もなかった」
ドイツ軍関係者との打ち合わせでは、山下はドイツ語を理解するということで通訳も緊張したが、ドイツ将校の講演中に大きないびきをかいて寝てしまうような一面もあった。
<大島再任>
一九四一年に入ると軍事使節団に続いて二人の大物が、シベリア鉄道を利用して欧州に向うことになる。 一九三九年八月の独ソ不可侵条約で不覚をとり、ドイツ大使を更迭された大島が再任された。帰国してから、まだ一年余りしか経っていない。前任の来栖は大島の到着を待たずにさっさと帰国してしまう。来栖の不満がうかがえる行動である。帰国に先立ち日本人会館で送別会が催された。三菱商事ベルリン支店長で日本人会会長の三宅又雄が挨拶で 「来栖大使は日独伊同盟の締結に尽力され、、、」と去る大使を紹介した。それを受けた大使は
「只今日本人会長は日独伊同盟の締結に尽力と申されたが、実はこの同盟は何もかも東京で話を決めたものであって、私はそれにかかわらずに、ただ調印しただけです。間違えないように」と精一杯の批判的意見を述べた。そして
「自分は在任中、これといったことは何一つ成し遂げなかったかもしれない。しかし、ただ一つ自信をもって断言し得る事がある。それは日本がドイツによって属国視せられ、日本の権威が傷つけられる様な事は、断じてなかったことである」
と述べてベルリンを離れた。こうして邦人社会の最後の自由な光が消えた。
大島大使一行が特別な計らいを受けながらベルリンのアンハルター駅に着いたのは二月十七日であった。東京を発ってから十五日目であった。一行はツォー駅から新しい大使館に直行した。大使館にこの日用意されたのは寿司であった。北海産の鮭でも材料にしたのであろうか?もしくは今日のようにパリから書記生あたりが一昼夜かけて運んだのかもしれない。大使はその寿司をつまみながら、参加者に日本の近況を詳しく語ったのであった。
大島は二月二十八日、南ドイツのベルヒテスガーデンにヒトラーの山荘を訪問し、信任状を提出する。大島が山荘に車で乗りつける所をドイツの記録映画が撮影している。大使は陸軍の軍服姿で軍刀を提げていた。リッベントロップ外相の出迎えを受けた後は、通訳なしでヒトラーと話を交わした。
この時ヒトラーの名前で、量産が開始されたばかりの国民車あの「カブト虫」が大島に贈られたという。 <松岡訪欧>
三月に入ると今度は松岡洋右外相が、ベルリンを訪問する。日本とナチスの首脳による直接の会談はこれが初めてのことであった。したがってドイツ側の歓迎も、空前のものであった。
首相官邸での会談を終え夕刻、両者がベランダに出ると、三月末にもかかわらず、外は小雪が舞っていた。寒空の下、二人を待ちわびていた幾万の市民からは一斉に「ハイルヒトラー、ハイルマツオカ」と歓声が上がった。
この日は四時半を回ってからヒトラーはもう一度バルコニーに顔を出す。今回は一人である。ヒトラーをひと目見ようとするベルリン市民の呼ぶ声に、こたえる形であった。そしてそこには日本人留学生篠原正瑛らもドイツ人に交じっていた。
「あたりは少し薄暗くなっていたが、その中に、ヒトラーの白皙の顔がくっきりと浮き上がって見えた。ヒトラーは、右手をひじのところで曲げるおなじみのポーズで三、四回、少年と少女たちの熱狂にこたえた。
私も人垣のあいだから伸び上がるようにして手をふったが、もちろんヒトラーのところからは見えるはずがない。しかし、そのときのヒトラーの白い顔は、四十三年たった今でも、私の脳裏にはっきりと焼きついたまま残っている。」
留学生はヒトラーに惹かれていた。 松岡外相は、ベルリンの総統官邸におけるヒトラーとの二度目の会談を終えて日本へ帰る前日の夕方、日本人会を訪問する。入り口には定刻のかなり前から多くの日本人が集って、外相の到着を待ちうけた。
やがて遠くからサイレンの音が聞こえてくると、五、六台の親衛隊のオートバイに護衛された大型のリムジンが、クアフュルステンダム通りをまっしぐらに走って来て、日本人会の建物の前で止った。
この時の松岡外相の行動は非公式であった。通行中のドイツ人にも、はじめはそれと気づくものはいなかった。黒いオートバイに護衛された大型の乗用車が止ったので、数人が怪訝な面持ちで立ち止まっただけであった。しかし乗用車のドアが開いて、すでにニュース写真でおなじみの松岡外相が姿を現すと、すぐ分かったと見えて、たちまち通行人が集ってきた。
小柄な松岡外相は、いがぐり頭で少し顎を突き出しながら、心持ち猫背のポーズで日本人会の入り口の階段を上がった。そして、集っていた百人ほどの日本人を前にして、総統官邸におけるヒトラーとの会見談を披露した。その内容はかなり型破りだったらしい。ある回想によれば以下のようである。
「ヒトラーさんに会った時、僕はこう言ってやりましたよ。”ヒトラーさん、世界中でたくさんの人があなたのことを気違いだと言っている。僕もそう思ったことがある。しかし、実際にあなたに会ってみて、そうではないことがよく分かった。
前人のだれもが手をつけようとしなかった、でっかいことをやろうとする人間は、世界中から気違いか馬鹿者扱いにされる。ヒトラーさん、あなたもそうだ。しかし、そんなことを気にしていてはだめだ。あなたが思っていることを、あなたが思っているとおりに、どんどんおやりなさい”と」
戦後の回想独特の誇張がこの文章にはあると思われる。いずれにせよ松岡はこのベルリンの熱狂的歓迎で、すっかりドイツ贔屓になっていて、少し口が緩んだことは間違いない。
![]() ベルリン訪問中、ローマ、バチカンを訪問する松岡外相。カトリックの日本人留学生に迎えられる。(井上まゆみさん提供) 第五部以上
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