<日本人会での挨拶>

大島大使は開戦から間もなくすると、独ソ両国の接近を見破れなかったかどで、日本への召還命令を受け取った。
十月二十三日、送別会が日本人会の建物で開催された。さほど広くない会場は百人も入ると一杯になる。大島は席上
「欧州戦に楽観は禁物である。そして対岸の火事と、日本に好結果をもたらすことを待ち続ける態度は危険である」と挨拶した。欧州情勢に日本は中立を保ったまま、受身になっていてはいけないという主張であった。

十月二十九日、大島大使は愛すべきベルリンを去る。胸の内にはドイツの必勝を確信していた。イタリアに出てナポリからの乗船であった。
「(駅頭には)多くの残留邦人が見送りに来ていたのに、親独大使と言われた割にはドイツ人の姿が少なかった」と高嶋は日記に記している。

後任の大使は来栖三郎(くるすさぶろう)でベルギーからの転任であった。来栖の夫人はアメリカ人である。大島の去った十一月、ベルリンのフリードリッヒ駅に降り立って、旧知の朝日新聞のベルリン特派員である浜田常良二を見つけると、金縁の眼鏡をはずしながら
「どうや、ナチスが好きになったかね?」と人を食った質問をした。来栖は明らかにナチスに反感を抱いていた。当然ナチスもかれを受け入れなかった。


<ヒトラー像>

時の人であるヒトラーとも幾人かの邦人が会見している。同盟国というドイツ側の配慮も働いた。
欧州戦争が始まった時、ちょうど日本からは、ニュールンベルクで開催される予定であったナチスの党大会に出席するために、寺内寿一陸軍大将ら一行が鹿島丸で欧州入りした。

開戦の知らせで、同乗の海軍代表はすぐさま帰国の途に着いたが、寺内ら陸軍関係者はドイツに入った。同月二十日、占領されたばかりのポーランドのダンチヒに飛行機で向かい、そこから更に保養地ツオポッドのホテルに着いた。寺内はそこでヒトラーと会見する。寺内が
「ここで総統にお会いすることが出来て喜ばしい」というとヒトラーは
「計算の十分の一でポーランド戦は終った」と今次の戦役の感想を述べた。ドイツ側の戦死者はヒトラーの計算よりは少なかったといえ、三万人であった。

確かに身内を戦争で失ったというドイツ人は、ベルリンの邦人のまわりにほとんどいなかった。三万人は全ドイツで見ると大きな数字ではならないということであろうか?それとも参加した部隊がベルリンからではなく、地方主体であったためベルリンにおいては死者の話を聞かなかったのかもしれない。

大島大使は帰国の直前の十月、南ドイツのベルヒテスガーデンのヒトラーの山荘で帰任の挨拶をした。大島がポーランド戦の祝辞を述べると
「貴国には“勝ってかぶとの緒を締めよ”という諺のあることを承知したが、これは誠に意味の深い言葉である。われわれは今こそ兜の緒を締めるべき時である」といかにも慎ましく述べた。
こうした会見談が日本の雑誌に大きく取り上げられたことはいうまでもない。そして実際にヒトラーは、この日本の諺を好んで後にも用いたようだ。

もう一人邦人がヒトラーと会っている。同盟通信社のベルリン特派員江尻進である。ドイツの戦勝凱旋行進がワルシャワで行われることになり、報道関係者も招待された。ドイツの仕立てた輸送機に乗り込んだのは、AP、UP、INS通信社のまだ中立を保つアメリカ人支局長らに加えて、日本人は江尻だけであった。

彼らがワルシャワの飛行場に到着すると、その横にもう一機着陸してきた。降り立ったのは真っ赤な外套の襟をつけた一団であった。高級将校であることは間違いない。すると突然江尻を含む記者は、一列に並ぶように言われた。自分らに近づく一行を見たらその先頭は、意外と地味な印象のヒトラーであった。

ヒトラーは記者たちの手を順に取って談笑を始めた。いよいよ江尻の番であった。中肉中背のヒトラーとは、眼と眼が正面にぴったり合った。緑色に輝く目で、じっと不気味に見据えながら、右手を差し出した。その手は定めし固く引き締まっているであろうと想像した。しかしそれは滑らかで、柔らかくまるで若い女性の手を握った感触であった。ヒトラーが女性的であったとは、よく言われる話である。



<宴会>

翌一九四○年二月二十一日は日本の建国記念日で、紀元二千六百年を祝う祝賀会が大使館で行われた。主立った邦人はみな招待されている。河邊武官の後任で昨日ベルリンに着任したばかり岡本清福陸軍少将の顔もあった。

ポーランドを打ち破ったドイツだが、西方ではフランス軍と交戦状態ではあるものの、戦闘は行われていない。邦人も少し将来に対して安堵感を抱き始めた。

会は来栖大使の挨拶と万歳三唱に続いて、日本料理での宴会が始まった。江尻が日本から送ってもらった軍歌集、流行歌集の二冊を持参し参加者に提供したら、たちまち演芸会の賑わいになった。今ならさしずめカラオケ大会であろう。

江尻はこの時の様子を、日本にとんぼ返りした妻に書いて送った。
「来栖大使は乃木大将の“金洲城外”の詩吟を朗唱し、意外な姿に一同が喝采した。私も大使に勧められて、藤原義江の得意な“船出の歌”を歌ったら、大使から”歌手になった方がいいぞ”との掛け声が飛びました。

その後、わが家に日銀の立正嘉さんや記者団の一同が集まり、急ごしらえのうどんのトマト煮を作って、がつがつ食べました。談論風発で、散会は午前一時となりました。
この時わが家に日本食料の備蓄があることが噂になり、陸軍武官室補佐官の遠藤悦少佐から、早速醤油とお茶を少し分けてほしい、との要請が舞い込みました。」とベルリンでの日本的生活が手紙の全面に渡って綴られていた。

同じ頃、ベルリンに住む日本の学生や研究者が開戦直後にドイツの優勢の中さらに増えたため、岡正雄教授を会長にして日本学徒会が発足した。そして定期的に専門分野を報告することを決めた。

一九四○年二月二十八日には、第一回目として経済を専攻する留学生原良夫が「ドイツの食糧問題」についての話を、他の留学生を前にして行う。あけぼ乃の一室を借りての開催であった。たまたま居合わせた陸軍の岡主計少佐が専門家として補足した。三月は安達剛正の「飛行機の話」四月は桑木務が「形而上学について」の報告をし、何ヶ月か会は続いた。



<ヒトラー絶頂の頃>

そして五月十日、ドイツはオランダベルギーに一方的に侵攻する。西部戦線での本格的戦いが始まった。五月十三日、高崎少佐の招待であけぼ乃に陸軍から穐田少佐、大使館から古内広雄三等書記官、それに新聞特派員達が集まる。話題は今後の西部戦線の動向に関するものばかりだが、誰もが「予測が付かない」と述べるだけであった。

岡本新陸軍武官は滞在中のベルギーで、ドイツの奇襲攻撃にあい、フランスを経由してベルリンに戻る。その直後、おそらく日本人会で学徒会の留学生達を前にして
「自分らは軍人で破壊が専門である。後の建設は君たちの仕事だから宜しく頼む」と乱暴な発言をする。

その場にいて、それを聞いた留学生桑木努は
「子供じゃあるまいし、勝手に壊して後で修繕せよとは何事だ」と内心大いに憤慨した。ただし「岡本さんは、個人的にはよい人であった」と桑木は自著に付け加えている。

6月にフランスが休戦を申し入れ、ドイツは欧州大陸内には敵はいなくなり、イギリスが海峡を挟んで抵抗するだけとなった。邦人はドイツの勝利に幻惑されるが、それは日本政府も同じであった。

そして六月十九日、陸軍事務所には新しく発売されたばかりのテレビ受像機が入った。フェルンゼー.ゲレート(遠視機)という新造語がドイツ語に出来たばかりであった。放送は毎日午後七時から九時までの二時間でニュースと映画のみ、画面は縞目が出て、まだまだ見にくいものであったという。また受信地域はベルリン市内だけで、一般への普及率も低かった。それでも日本からはこの研究のために駐在する人もいた。

すでに十六ミリの映写機用のカラーフィルムが市場にも出回っていた。駐在員も少し奮発すれば、カラーフィルムにベルリンの姿を写すことが出来た。さらにはコンタクトレンズもすでに市販されていた。ドイツはこの時ハイテク先進国であった。



<大使館移転>  

ヒトラーは首都ベルリンの大改造を計画し、その仕事をお気に入りの建築家シュペアーに委ねた。計画の中には外交諸機関をティアガルテンに移転するという項目もあった。

また日本大使公邸はブランデンブルク門に近いティアガルテン通りの三番にあった。こぢんまりとして一種風格のある建物であったが、ドイツ政府からは立退きを要求されていた。これも新都市計画のためであった。こうして日本大使館、大使公邸のティアガルテン公園地区への移転が決まった。

着工は一九三八年十一月五日であった。シュペアー建設相に所属するベルリンの帝国建設管理局は、日本大使館の建設用地二十五番の古いアパートをまず撤去した。新しい建物空間は二万七千立方メートルで、ギリシャ建築様式をヒトラーの趣味でドイツ風にした「第三帝国様式」と呼ばれるものであった。

しかし間もなく戦争が始まると、西部要塞などの軍事施設の建設が行われるようになったため作業者はそちらに回され、工事は大幅に遅れた。その結果大使館が完成し、日独関係者で公式に竣工式が行われるのは着工から四年後の一九四三年一月二十五日となる。

式当日には軍需相となっていたシュペアーも出席し、外務次官補エルンスト.ヴェアマンから大島大使に新大使館の黄金の鍵が手渡されることなるが、すでに連合国がベルリンへの空襲を強化し始めた時期に入っていた。

本館は一階に壮麗な部屋が数多くあり、二階が大使の住居である公邸と来賓用の客室、三階が従業員用の部屋であった。先に紹介した陸軍武官室と同じ構成である。外交官、若い書記官は東端の円筒状の部分で勤務につき、日本との暗号電文のやり取りに使用される。


しかし新しい大使館は、一九四〇年十二月頃から実際には使用されている。官補として日本参戦後間もなくして、トルコからベルリンへ転勤となった新関欽哉は書いている。

「日本大使館事務所は今度来てみると、ブランデンブルク凱旋門からほど遠くないティアガルテン通りの立派な建物に移っていた。大使公邸は同じティアガルテンの古びた独立家屋であったが、これも移転して、事務所と一緒になっていた。

大使館の向こう側は、鬱蒼とした林に囲まれたティアガルテン公園(もとプロイセン選帝候のお狩り場)で、大使館と道路の間には門も塀もなく、低い石の仕切りがあるだけなので、公園がまるで大使館の前庭のようにみえた。右隣建物はイタリア大使館で、左隣には、ドイツ最大の財閥であるクルップ.フォン.ボーレンの邸宅があった。

中庭の真下には堅牢な防空壕が作られていたが、これも総統官邸の地下防空施設を小さくしたようなもので、段々ベッドのある、いくつかの部屋のほかに、(大島)大使用として家具つきの二部屋があった。防空壕のコンクリートの厚さは一メートルもあって、当時最大とされた一トン爆弾の直撃にも堪えることができるように設計されていた。防空壕は大使館の地下室と連結されていた。」
この地下壕は今日も同じ場所に残っている。

そして大使館の地下室にはバーが設けられ、大使がしばしば客を連れて談笑した。カウンターのそばにはピアノがあり、ゲッペルス宣伝相が訪問した際にそれを華麗に弾いた、という逸話もあるが真偽の程は定かではない。

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旧日本大使館地下のバーカウンター

第四部以上