<日本大使館と武官室>
 
ベルリンの日本人の私的な集会場が日本人会とするなら、公の集会場は大使館であった。開戦前の駐独日本大使館は邦人の多く住むノレンドルフ広場から、少し奥まっただけのアホルン街にあった。建物の前の通りは狭く、車の出し入れも不自由な所であった。そして大使公邸も離れていた。
 
一方海軍と陸軍は、それぞれ大使館とは別に駐在武官事務所をベルリンに開設していた。同盟通信の特派員としてワルシャワに勤務していた森元治郎は、一九三八年九月下旬ベルリンに出かけた。時の大使東郷茂徳(とうごうしげのり)はすでに帰国を決めていたが、その時の様子をこう書いている。
 
「まず東郷大使をティアガルテンの公邸に訪ね、夕食の御馳走になったが、どこか冴えない面持ちである。アホルン街にある大使館事務所にいってみたが、ここも閑散。若いところでは法眼晋作官補(のち次官)ほか成田勝四郎書記官、高橋通敏在外研究員(いずれものち大使)がいた。
イメージ 1
ベルリンより、モスクワに移った直後の東郷大使。(伊藤正義さん提供)
 
これに反して陸軍武官室(武官大島浩中将)は人の出入りが多くて賑やかだし、カイザーアレーの海軍武官室(武官小島秀夫中佐)も活気がある」
特に日章旗のはためく陸軍武官事務所は自動車の出入りが激しく、だれの目にも活気があるように映った。そして陸軍武官大島が大使に昇格したのに伴い、一九三八年十二月新任武官として河邊虎四郎少将が着任する。かれはその武官室についてこう書いている。
 
「この家は独立家屋で、数年前までは某ユダヤ人画家が盛っていたものと言われるだけに、広い後庭には、リンデン(菩提樹―筆者)の薫りも豊かな立派なものであった。一階をオフィスに、二回を武官私邸に、三階の主体を女中二人の部屋に使い、近くには自動車運転手の家族が住んでいた。
 
補佐官のほかに、陸軍技術および航空関係の駐在官として五、六名の将校がおり、留学の駐在員および特別任務を持った将校合せて三、四名、これら全員十五、六名が毎日この家に出入りしていた。私の仲のよい外国武官の中には”ノレンドルフ司令部”などと名付けて私をからかっていた者もあった。
 
オフィスに二名の書記嬢がいたが、二名ともに既に勤続十年をこえ、ドイツ人一流の責任感で、忠実に長年勤務に甘んじていた。既に老境に近かったが自動車運転手はフィンガーという古い兵隊上がりの男であった。」
 
海軍武官室は元々はバイエルン広場に面していたが一九三八年、日本人会と同じカイザー通りの一八二~一八五番地に移る。番地を三つにわたって占めるこちらも、日本海軍の名に恥じない立派な建物であった。入り口を中に入るとベルリン留学中に画家東山魁易が描いた、建物と周りの景色を描いた絵が掛けてあった。
 
イメージ 2
 
カイザーアレー182番 海軍武官公邸(阿部信彦さん、提供)

スイス公使であった天羽英二の日記によれば
「昼小島海軍武官の招待。新しき家屋購入、立派なる大なる建物は庭園付、七~八十万(マルク)のものを猶太人(ユダヤ人)より十四~五万にて買い入れし由。事務所も一緒、外交分立顕著」
と海軍の事務所もユダヤ人から買い叩いたのであった。その後手狭になったのか建物は武官の公邸としてのみの使用となり、武官室は新しい大使館の隣のグラーフ.シュペー通りに移る。
 
やや時期は進むが一九四四年の春、日本からの潜水艦の到着によって、海軍事務所は五名スタッフが増える。その結果ドイツ人事務員を含めると約四十名の大所帯になった。このうち技術関係のメンバーは総勢十四名だった。かれらはドイツの技術の吸収が主な任務であった。
 

 
<欧州戦争勃発>
 
「大使、責任を取れ!」アホルン通りの日本大使館で、陸軍武官河邊少将の怒声が響いた。一九三九年八月二十二日、深夜のことである。ドイツのリッベントロップ外相から、
「自分はソ連との条約締結のために、間もなくモスクワに向かう」と知らされた大島大使が、意気消沈して大使館に戻ってきた。それまでの日独関係から今回の独ソ接近の知らせは、ベルリン駐在者にとっては、同盟国ドイツの裏切り行為と映った。
 
硬骨漢で知られる河邊は、大島のドイツ一辺倒な考えには、かねてから不満を募らせていた。軍籍の離脱を考えたこともあり、大使との不和は広く知れ渡っていた。それが今回のドイツの不誠実な行動をきっかけに、大使に向けて怒りが一気に爆発した。
翌八月二十三日、そんな日本側の苦悩を無視するかのように、リッベントロップ外相はモスクワに飛び、ソ連と不可侵条約を調印する。ナチスと共産主義の不気味な提携である。
「これで戦争だ」と誰もが覚悟をした。日本では「欧州情勢は複雑怪奇なり」とのせりふを残して、平沼騎一郎内閣が総辞職する。
 
その頃ベルリン北西の港町ハンブルクには、日本郵船の客船靖国丸が待機していた。郵船ベルリン支店長有吉義彌は、ロンドン支店から再三の回船催促にもかかわらず、大使の命令で同船をハンブルク港に引き止めた。
有吉が「まだ戦争は始まっていませんが」と抗議すると大島は「始まるに決まっとる」と自信満々であった。そしていよいよ独ソ不可侵条約が締結されると大島はただちに
「婦女子及び不要不急のものは、ハンブルクに待機中の靖国丸で帰国せよ」と発令した。
イメージ 3
 
ベルゲン港の靖国丸の前での記念写真
      
八月二十五日夕方、日本人会は一般の在留邦人に対する退去勧告を出す。民間人の間でもいよいよ動揺が起こり始めた。三井、三菱その他の商社員の家族のうち、急遽出発準備のできる人々と、主としてベルリン在住の留学生が帰国の決心をした。

同盟通信の江尻は夫婦同伴で一ヶ月もかけて着任してきたばかりであったが、大使館の命令とのことで、すぐさま妻のみ帰国組に加わった。その数総勢二百十三名であった。ドイツに留学中であった朝永振一郎、湯川秀樹の両氏も留学を切り上げ、引き揚げに加わった。二人は後にノーベル賞を受賞する学者となるが、この時に割り当てられた船室は船底であった。一等船客は商社関係者が独占した。

一方ベルリン市内では報道管制が強化され、ニュース放送以外は音楽だけとなったので、市民の間に流言蜚語が飛び交った。缶詰などの食料品を買い漁る者がいるという噂も現実となってきた。
日本人会では万一に備えて防毒マスクの扱い方の講習会を開き、木原友二少佐に講師を依頼した。毒ガスが使用された前大戦に対し、今次はどういう戦いになるかはまだ誰も分からなかった。三菱商事の渡邊壽郎支店長や三井物産の綾井豊久支店長始め、ベルリン在住の日本人の多くが出席し、真剣な表情で聞いていた。
 
九月一日、独ソ不可侵条約でソ連の後ろ盾を獲たドイツが、予想通りポーランドを急襲した。第二次世界大戦の勃発である。戦争はそれから六年以上にわたって、世界中を巻き込んで続けられることになるのであった。戦争の勃発で食糧事情が悪くなる。留学生高島泰二は日記に記す。
 
「九月二十日今日は“肉なしデー”だから、一般のレストランでは肉料理の注文が出来ない。その為か、支那料理店“泰東”などでは日頃見掛けないドイツ人客で一杯になっている」
戦争が始まってドイツの食堂も営業が難しくなる中、三軒の日本食堂は営業を続けることが出来た。そして終戦間際まで続く。日本人外交官は普通のドイツ人の数倍もの肉の配給を受けたからだ。その配給切符で得た肉を使ったすき焼きをつつく若き外交官補の姿を、ドイツ人老婆が恨めしげに窓越しに見ていたという。

それでも余る配給券は日本人会に回された。そこで再配分をすると邦人は平均して、ドイツ人の二倍ほどの配給を受けることが可能になった。


ヒトラー政権は開戦に際して、決して戦争という言葉を用いなかった。「ポーランドの進入を撃退した」という言い回しを、報道を通じて繰り返した。そして開戦直後のベルリン市民は、相次ぐ勝利の知らせの割には冷静であった。それまではヒトラーの拡張政策に熱狂的に従ってきた民衆であったが、今回の反応は少し違ったものであった。
 
たしかに砲声が聞こえてくるわけでもない。空襲警報もない。ベルリンでは戦争は遠いものとして捉えられていた。三井物産の三上良臣は貴金属店のショーウィンドウから一斉に宝石、カメラ類が消えたのが、戦争を幾度か経験した民族の知恵であろうと想像した。そしてこの頃日本人会でもあけぼ乃でも、戦争の話題はほとんど出なかったという。

また靖国丸の出港後、ベルリンから邦人婦女子の姿はほとんど消えた。日本人学校も閉鎖された。大島大使夫人他わずかな外交官の家族のみが残った。そしてポーランド戦は意外に早く終わる。民間人は全員男やもめとなり「人を馬鹿にしている」と外交官の特権を憤った。
 
第三部以上
 

筆者のメインのサイト『日瑞関係のページ』はこちら

筆者の著書一覧はこちら