日本食堂>
 
海外で暮らす日本人にとって、日本食はなくてはならないものである。ベルリンには先に述べた日本人会の食堂部を含め、あわせて三軒日本食を食べさせる店があった。
 
他には戦時中はパリに「ぼたん屋」、そしてハンブルクに「河内屋」があるくらいであった。少しそれるがぼたん屋は日本の旅館の考えを元に運営され、畳の部屋に宿泊することも出来たと言う。またそれより以前にはスイスのジュネーブにもあったが、日本が国際連盟から脱退し邦人が減るやいなや、経営難から廃業となったらしい。
 
「海外には日本食堂は駐在員二百人あたりに一軒ある」とある海外生活の永い人が話すのを聞いたことがあるが、それは当時にもあてはまりそうである。
 
三軒あったベルリンの日本食料理店の代表は「あけぼ乃」であった。当時ベルリンに暮らした人によって書かれたさまざまな回想録に、必ずと言っていいほど登場する場所である。
 
その中では「曙」「あけぼの」など、さまざまな書かかれかたをしているが、先の日本人名簿に掲載された広告から見ると「あけぼ乃」と言う書き方が正しいようだ。よって本文ではこの表現のを用いる。先のプラーグ広場近くのホーエンシュタウフェン通り四十四番にあった。
 
営業時間は午後一時から三時、六時から九時と昼夜ともやや遅めの始まりである。1942年時点の主人は平田文でシュペアー婦人が電話の予約などに応対した。その前の主人は杉本久市であるか、その料理の評判は中々高い。またオーナーの移り変わりも激しかったのかもしれない。
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レストラン あけぼ乃 田辺平学著「ドイツ 防空・科学・国民生活」より この写真を見つけた経緯はこちらを参照ください。
 
日本人会の「食堂部」は主任武久久平、料理人山崎吉五郎、松原謙次によって運営されていた。最後は「東洋館」であるが、こちらはあまり回想録などにも登場しない。ロンドンで同名の旅館兼日本料理店で成功した佐竹為吉が、ベルリンにも出店したがうまく行かず、手放したものだった。代表的ベルリンのガイドブック”Baedeker"の一九三六年度版には、外国料理店の欄に二件の中華料理屋と並んで、日本食としてはこの東洋館のみが紹介されている。営業は十二時より三時と昼のみで、新しい店主は鈴木重吉であった。
 
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1940年3月17日、東洋館ですき焼きを食べる陸軍技師、川喜田四郎(後中佐)。(川喜田倫子さん提供)

戦前ロンドンでは欧州に駐在する邦人を網羅した「日本人名録」が毎年発行されていた。一九三七年版によればベルリンにはさらにもう一軒、日本料理「
都庵」という和風をかもし出す名前の店があったが、その後まもなく閉店となった。

他には日本人を相手にした土産物屋として高田屋、日独屋商店があった。二件は日本人の家庭を訪問する御用聞き全般もやっていたようだ。

また伯林日本堂はドイツ人を妻とする田口正男によって営まれていたが、日本語の活字印刷を請け負った。先に紹介した「独逸国日本人名録」もここで印刷された。さらには海軍武官室が定期的に発行する経済週報も同様で、奥付けは
「印刷製本:伯林市ウィルメルスドルフ區モルツシュトラーゼ90番 伯林日本堂」となっている。

ウィルメルスドルフ区とは先に江尻が「日本人が集まって住む」と記した地区名でベルリンの高級住宅地でもあった。
 

 
<回想の日本食堂>
 
食への執念は在留邦人も例外でないというか、多くの回想録に日本食が登場する。以下はその中からベルリン出張中で帰国間近の頼惇吾中佐の日記からである。

[一九四一年八月一日
六時半から日本人会で一高会があるというので、伊木造兵少佐と出かけたら、後から野間口造兵大尉も来た。七時頃に大体揃ったので食堂が開き、ビールに色々の日本食でおいしく食べ、後誰の寄贈か芳醇なコニャックが出た。
 
八月八日
昼食のため日本料亭のあけぼ乃に行っていたら、事務所の山田(精二)機関中佐から電話がかかり“昼食を武官邸で差し上げるそうだから、すぐ帰って来てくれ、注文した食事は代わりに自分が食べるからそのままにして”と言うことであった。
 
夕方から日本人会で、あとに残る艦政系の連中が、私らのために送別会を開いてくれた。折角おいしい肉のすき焼きも、昼の会食が遅かったためあんまり頂けなかった。」
 
しかし邦人だけを相手にするこれらの日本料理店は、どれも欧州の建物と調和しないような古びた日本のポスターが貼られただけの、にわか作りの内装であったようである。料理の質も不十分で特に戦争が始まってからは「とりあえず日本食もどきを出す程度のものであった」という声が大半である。

ベルリンの大使館に勤務した藤山楢一官補は自著で次のように記している。

「当時のベルリンには”あけぼ乃”など日本料理の店が一、二軒あったが、日本料理とは程遠くうまいとは言えなかった。小さな中国料理屋の方がまだましと言えた。」
 
今日のように冷凍技術も発達しない時代では致し方ないのかもしれない。一方藤山が「まあ食べられる」書く中華料理店の筆頭は「泰東飯店」であった。三件ほどの中華料理店の中で唯一、経営者が反日的でなかった。そして「ベルリンではここが一番美味しい」と誰もが口をそろえた。
 

 
<ベルリンの日本料理>
 
回想に登場する日本食レストランはどれも断片的である。そうした中で成瀬政男は「ドイツ工業界の印象」という一九四一年十二月十日に発売された自著の中に、このタイトルにもした「ベルリンの日本料理」という見出しで一章割いている。成瀬がベルリンを訪れたのは一九三七年のことであるが、貴重な情報なので少し長い引用をする。
「たいていの日本人が引き上げてしまったと報ぜられている今日は、どうなっているのか明ではないが、つい最近迄、伯林には日本食堂が四軒あった。(中略)何れも日本人が集まり住む、伯林でも高級の住宅地と云われているウイルマース.ドルフ区に在り、主として伯林在住の日本人をその顧客として経営しているものである。
 
海に遠い伯林のことであるから、新鮮な魚は得難い。また緯度の高いこの国のことであるから、野菜や果物にも恵まれていない。さらにドイツの戦時への対策より、時々ある種類の食料が市場より得られなくなる。こんな次第で材料に兎角の欠点があるので、此等の食堂の日本食は余り上等なものとは云われてない。ロンドン、パリー、ニューヨーク等の日本食と比較しても、伯林のものは相当に懸隔がある。
 
しかしそれでも、伊太利より輸入する米で飯は立派なものが焚ける。麺包粉を糖の代わりに使った糖味噌漬の”香のもの”もある。日本より粉になって来る材料で作った味噌汁もあれば、直輸入をする海苔も、日本酒もあり、満州より来る大豆で作ると云う豆腐もある。その外に刺身、吸物、寄せ鍋、牛なべ、寿司、こわめしの類に到る迄、まず一通りの日本料理は可能である。
 
従って日本の味を味わいたい同胞、日本語で注文し、日本語を話しながら食事をしたい人々、或はまた長い旅行のあいま、兎も角も一度伯林に帰ってなか休みをし、この間に日本のかおりに浸ってから、次の活動を起こしたい人々によって、これ等四軒の日本食堂は、いつも相当の客で賑わっている

またベルリンの日本料理は、親善公演のためにベルリンを訪問した宝塚少女歌劇団の一行を喜ばせた。
一九三八年十一月三日、夜にローマを発った一行は翌日午前十一時にベルリンに到着した。団員の一人打吹美砂(みく)は

「お昼は日本食です。当分食べられないとあきらめていたのに、おいしいおにぎり鰻丼がいただけるので大喜び。一粒の米も日本のお米だと思うと残せません。」
残念ながら、どの日本食レストランであったかは書かれていない。
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ベルリンを訪問した宝塚メンバーのサイン。丸印が打吹美砂。(当時ベルリン在住加藤綾子さん提供)

また公演を夜に控えた、十一月二十一日には同じく団員の室町良子が
「午後五時に東洋館すき焼きのおごちそう。美味しかった。七時半に楽屋入り」と書き残している。ここでは珍しく東洋館の名前が登場する。日本食が乙女らの外国公演の力添えをしたことは間違いなかろう。
 

 
<日本食>
 
先にも紹介した頼中佐の日記の以下の記述から、あけぼ乃の刺身の質をうかがい知ることが出来る。ただしこちらは成瀬の書いた時期から四年ほど後であるから、ドイツの食糧事情の悪化を考慮する必要があるかもしれない。
 
「(同道の上司は)すき焼きとビールは大層お気に召したようであったが、他に何もないので入船少将が気にして刺身を注文された。(中略)何の魚か判らないが、塩っぽくてプンと来るので,私も一切れで閉口」
 
また日本食材の入手状況に関して、海軍技師の田丸直吉が書き残している。時期はかなり進んで一九四四年と物資も欠乏勝ちになる頃である。
「ベルリンではお米は容易に入手出来てご飯には困らなかった。多分配給の切符が必要だったと思う。しかし日本食には不可欠ともいうべき味噌、醤油それにわさびだけはどうにもならなかった。贅沢だと言えばそれまでであるが、時折スエーデンからマグロの大トロが空輸されてきた。
 
醤油といえば、海軍事務所のコック長をもって任じていた酒井(直衛)氏は、戦前ベルリンの醤油工場に勤めていたというその方面のベテランではあったが、戦時下のベルリンでは材料難でどうにもならなかった。私どもにはコーヒー豆よりも大豆の方がよほど有り難いと思うが、これだけは仕方がなかった。」
 
日本人好みの米は、戦前はカリフォルニアからの輸入もあったが、依然北イタリアで日本人向けに栽培され、ベルリンに運ばれてきた。そして邦人自炊する際の味付けには、醤油がなくなるとマギーブイヨンを代用した。なお田丸はコーヒー豆より大豆と書くが、ドイツ人はコーヒーに目がなく、闇市では自国通貨マルク以上に通用した。
 
さらに戦前は日本から食料品を送ってもらうことが出来た。留学生高島泰二は一九四○年二月三日の日記に書く
「日本からの荷物を受取りにポツダム駅の税関に出掛ける。札を握って待つことしばし、七十八番と私を呼ぶ税官吏のひどいベルリンなまり、渡された木箱を開けて検査を受ける。古新聞に包まれた日本の食品は母からの心づくしの品々だが、ドイツ人の目には怪しいものばかり。煎餅や海苔、羊羹は何とか通ったが“からすみ”だけはいくら説明しても解ってもらえなかった」
こうして届いた日本食は貴重品であった。高島は同年十二月十九日にこう書いている。
 
「宴会の後、三菱商事の山本(道太郎)、武内(弥四郎)両氏を誘いクルーネヴァルトの田中路子さんのお宅を訪ねた。私が持参した“からすみ”を肴にして日本酒を味わいながら家郷を想う気持ちはみんな同じであった。お酒は大島大使からの贈り物で、路子さんが大切にしておられたものと伺った。」珍味からすみは一年以上保存がきいた。
 
第二部以上

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