随分間が空いてしまった。

続きを書いて終わりにしたい。


叔父から叔母危篤の電話を受けて駆け付けると、叔母の意識はなく気管挿管されて会話もままならず。

ドクターと叔父の説明を繋げると、転院した療養病院から、まず叔父に叔母の状態が悪いと当直ドクターから電話があったらしい。

そのドクターは他院の方で、駆け付けた叔父が院長と話そうにも院長は不在で連絡も取れないと。

叔父は当直ドクターに何とかしてくれと言ったそうだが、療養型病院のため人手も設備もなく、他院に勤める当直ドクターが患者を勝手に動かすこともできず、何度も院長を呼び出してくれてようやく院長と連絡がつき、そこで慌てて救急車を呼んだらしい。

転院したとき、あまりの設備のなさに落胆したが、曲がりなりにも病院だから最低限のモニタリングや処置はしてくれるのだろう、叔父と二人の自宅に帰らせるよりはずっと良い筈と思っていた私は甘かった。

血液検査は転院時にした2週間前の結果しかなく、食事は何を与えられていたのか誰も知らされず、病院の話では腎臓用の食事だったが叔母は副食を食べずお粥ばかり食べていたそうだ。

叔父は度々見舞いに行ってくれていたが、食事時間までいることは出来ず、叔母は外界から完全に隔離された状態だった。

良くも悪くも、だが、あの病院に限っては「良くも」はなく、最悪の隔離だった。

危篤状態にされた叔母は一旦救急車で、元いた急性期病院に戻された。

私が駆け付けられたのは急性期病院に戻ってからだったので、たった2週間で叔母をこんな状態にしたあの病院には見舞いに行って以来行っていない。

もし私があの病院の院長と顔を合わせていたら、間違いなくキレて怒鳴っていただろうから、その方が良かったのかもしれないが。

叔父は腹が立たないのかと不思議に思ったほどだった。

何より。

後でドクターの説明を聞くまで知らなかったが、何より許せないのは、気管を切開して挿管された理由だ。

気管挿管は運ばれた急性期病院で、呼吸が出来ていないためされたそうだが、呼吸が出来ていなかった理由は喉に痰が詰まっていたためだった。

つまり気道を痰で塞がれたための窒息だ。

療養型病院では痰の吸引すらしてくれなかったことが分かった。

説明してくれた若いドクターも、何とも言えない表情だった。

転院当初はリハビリをするということだったが、リハビリどころではなかったのだ。

入院患者の状態を改善するどころか、維持すら出来ないのが、このk市にある療養型病院だった。

ここにさえ行かなければ、叔母のその後は変わっていたと思う。

帰りたがっていた家にも一度くらい帰れたかもしれない。

結局、元の急性期病院に戻って数日で意識は戻り、2週間してまた別の急性期病院へ転院させられ、そこでようやく透析が始まった。

3週間前後、その急性期病院で透析を受けたが、やはりいつまでもは無理だそうで、また別の療養型病院に転院させられた。

そして叔母はそこで亡くなった。

最後の療養型病院は透析設備も人手もあり、最初に移されたk市の療養型病院とは全く違う手厚い手当を受けられた。

最初からここに移れていれば、叔母の予後は全然違うものになっていただろう。


もう叔母が亡くなり一年半が過ぎた。

その間に、新しく分かってきたこともある。

まだ途中ではあるが、叔母の言っていたことと叔父の言っていたことの食い違い、せん妄かと思うようなことを叔母は言っていたが、それにはそれだけの理由があったらしいこと。

叔母が入院するようになってからは、叔父もよく叔母をみてくれていると思っていたが、本当のところはどうだったのか。

気管切開は塞がれて一時期少し話しは出来るようになったが、末期は経鼻チューブを入れられており、透析の翌日以外叔母は殆ど眠っていた。

叔父は会社を休んで叔母の病室へほぼ日参してくれており、当時私はそれを、叔父も漸く叔母の状態と向き合えるようになったのだと喜んでいたが。

話せなくなっていた叔母は、あの状態をどう思っていたのかと、今も時々考えては後悔する。


叔母亡き後、叔父の姉達がしばらく泊まり込んで叔父の世話をしてくれていた。

何かの仏事を兼ねて、姉達が帰る前に一度という話だったか、そこへ私が行くことになり、近所の百貨店で弁当でも買って行こうと弁当の希望を聞いた。

叔父はオコワが好きらしく、オコワを使った弁当を買っていったが、他に何か要らないかと聞くと

そのオコワ屋さんで赤飯を買ってきてくれと言われて思わず聞き直した。

叔母が亡くなった仏事の日に赤飯とは?

叔父は長崎五島列島の出身で、年代も遥かに上の人なので、私の育ってきた文化とは違うのか?

赤飯?赤飯がいいの?と聞き直すとそのオコワ屋さんの赤飯が美味しいのだと。

流石にどうかと思ったが、50年連れ添った妻を失くして気落ちしてる人の言うことだからと希望通り赤飯も買って持って行った。


思えばこの一件から始まって、それは色々と、考えを改めたことが多くある。

兄には概略は伝えてあるが、兄と叔母がそもそもさほど懇意にしていなかったので、あまり気持ちは動いていないらしい。


一番の私の後悔は、もちろんk市の療養型病院への転院に仕方なくとはいえ同意したことだが、

そして、その時々、そうするしかなく選択してきたことではあったが。

とにかく何とかしてでも、意識がある間に、叔母を自分の家に帰らせてあげたかった。

それだけは、私がもっとゴネればどうにかなったのではと悔やまれる。

おばちゃん、ごめんな。