ガン戦争 3 | 野人エッセイす

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森羅万象から見つめた食の本質とは

「健康」と言う当たり前のように一言で片づけられる言葉には、人類が数万年も生き抜いてきた歴史と、奥の深い道理があり、その条件が揃って初めて健康が当たり前のように保たれる。

それを知るには相当な時間と労力を要する


人は「当たり前」の勉強などせずに先へ先へと進もうとする。

立体的な「仕組み」を言葉で片づけてしまうからだ。


「野菜」についても同じ、野菜を知らない人はいない。

今は野菜を毎日のようにバランス良く食べることが健康のシンボルになっているのだが、これも先へ先へと進んだ結果だろう。

季節を問わずすべての野菜が食べられた時代など日本にも世界にもない。野菜はれっきとした植物なのだ。

しかもその重要性を感じて毎日のように人は口にする。


植物の歴史は人類よりはるかに長く、構造と機能は人知も及ばないほど精巧で、大地とすべての生き物を巻き込んだ壮大な仕組みがある。

調理法は詳しいのに何故そこに目が向かないのだろうか。

野菜の認識が名前と味と成分と「色や形やみずみずしさ」程度ではあまりにも寂しく情けないではないか。


野菜は食品として製造されたカマボコや豆腐ではなく、人と同じ誇り高き生き物なのだ。人間の好みや都合で環境とエサを与えられて育つものではない。

そう思う人は野人農園まで植物とは、野菜とは何か学びに来ると良い。


学ぶと言うことは覚えることではない。

そこに気付かない限り人は迷走する。

やがては自滅することになりかねない。


正常な細胞の維持には、野人の言う物理的に「必要なことをしなかった」だけでなく、心の在り方も大切だ。

悩みや苦しみ、怒りや悲しみは「余計なこと」に入る。

毎日のよう「ああでもない、こうでもない」と一喜一憂するのも余計なことなのだ。


数兆の細胞の総大将がこれでは統率もとれない。

お釈迦様のように「悟り」を開けばそうならないのかもしれないが、人間はうまく行かない。常に欲と言う煩悩に振り回される。

治療は医学かもしれないが、当たり前の維持、つまり「健康」は医学の領域でもなく実験室もいらない。

やってみればやがてわかる。何が必要で、何が余計なことか。


やった上で答えが出なければ先へ進めば良いのだが、やった話はいまだに聞かない。

野人は今こうして実際にやっている。

そして近々、近代医学に見放された友人の末期ガンに取り組むことになるだろう。


ガンと戦争などしない。

医者ではなく人として全力を尽くすだけだ。

誰も試したことのない方法で元の体に戻す。