龍と女神のツインレイ夫婦
Mosscual・りこにゃんですウインク
 
 
 

 

先日の京都リトリート後に書いた記事で、

旅のテーマは

「選ぶこと」だったとお伝えしました。 

 

けれど、最近改めて

あの時間を振り返るなかで、

東寺や神泉苑で

受け取った感覚が、

もうひとつの「言葉」に

集約されていくのを感じています。

 

それは、

「頑張りなさい」でも、

「もっと学びなさい」でも

ありませんでした。

 

むしろ逆です。

 

「もう準備は整っている」

でした。

 

その感覚の奥にあった本質。

 

それが

「統合」でした。

 

そして、

神泉苑で浮かんできた言葉たちも、

東寺で受け取った問いも、

全部その方向を指していたように感じます。

 

 
 

 

 

⬆の記事でも書きましたが、

神泉苑の池の前に立ったとき、

わたしは

整っていたわけではありません。

 

暑さもあり、少し寝不足でもあり、

頭の中には

いろいろな考え(雑音)がありました。

 

でも、水面を見ているうちに、

気づけば考えることをやめていました。

 

答えが出たわけではありません。

 

むしろ逆で、

答えを探そうとする力が、

静かに抜けていった。

 

そんな感じです。

 

そして

そのとき浮かんできたのが、

「水鏡」という言葉でした。

 

昔から日本では、

静かな水面は

神や見えない世界を

映すものとされてきました。

 

でもその時映していたのは

神様ではなく、

自分自身だったのかもしれません。

 

本当は何を感じているのか。

本当は何を望んでいるのか。

 

普段は

雑音に隠れて

見えなくなっているもの。

 

神泉苑は、何かを与える場所というより、

忘れていたものを映し出す場所。

 

そんなふうに感じています。

 

そしてその場では、

そのほかにも

いくつか印象的な言葉が浮かびました。

 

その時は

意味が分からなったのですが、

リトリート後に、

少しずつ線がつながり始めました。

 

その

中心にあったのが、

 

「統合」

 

という

感覚でした。

 
 

 

東寺の金堂で、

わたしの中に残った言葉がありました。

 

「統合した力を使いなさい」

 

わたしたちは、

進みたい自分だけを

残そうとします。

 

怖がる自分を消そうとする。

疑う自分をなくそうとする。

 

でも本当に必要なのは、

どちらかを

消すことではないのかもしれません。

 

本当はやりたいことがある。

でも失敗も怖い。

進みたい。

でも今のままの安心も捨てがたい。

 

わたしたちは、

進めないことを問題にしがちです。

 

でも本当は、

進みたい自分と、

進みたくない自分が

同時に存在している

だけなのかもしれません。

 

本音で生きたい。

でも嫌われたくない。

 

わたしたちはいつも、

どちらかを

消そうとしてしまいます。

 

けれど

薬師如来や日光・月光菩薩を

見上げながら感じたのは、

「そのどちらも、大切な自分である」

ということでした。

 

怖がっていてもいい。

迷っていてもいい。

疑っていてもいい。

 

大切なのは、

それらを

切り捨てて進むことではなく、

抱えたまま進むこと。

 

統合とは、

光になることではなく、

光も、影も、どちらも自分のものとして

内側に抱える器を持つこと

なのだと思います。

 

分けるのではなく、結ぶ。

 

そして空海が伝えようとしたことも、

もしかすると同じだったのかもしれないと

感じています。

 

 
 

 

今回の京都には

ひとつの流れが

あったように思います。

 

神泉苑では、

自分自身が映し出された。

 

東寺では、

バラバラだったものが結び直された。

 

そして次に訪れる高野山では、

その自分を

思い出していくのかもしれません。

 

もしそうだとしたら、

高野山で起きることは

「思い出すこと」

なのかもしれません。

 

失われた何かを探すのではなく、

最初からそこにあった

「本当の自分」に気づき直す旅。

 

だから多くの人が、高野山で

懐かしさを感じるのかもしれません。

 

次回から、

なぜ高野山が人に

「帰ってきたような感覚」を

呼び起こすのか。

 

その設計図を、

空海の視点から辿ってみたいと思います。