龍と女神のツインレイ夫婦
Mosscual・りこにゃんですウインク


 

前回の記事で、

こんな問いを残しました。

 

「思い出すためには、
一度

忘れなければならなかったのではないか」

 

今日は、
その問いを

もう少し深く

見てみたいと思います。

 

わたしたちは、

「忘れる」という言葉に、
どこか否定的なイメージを持っています。

 

大切なことを忘れる。

本当の自分を忘れる。

 

まるで失敗したかのように。

 

でも、

本当にそうなのでしょうか。

 

わたしは最近、

忘れることにも

意味があったのではないかと

思うようになりました。

 

少し想像してみてください。

 

映画を観る前に、
結末をすべて知っていたら。

 

どんな展開が待っているのか。

誰が何を選ぶのか。

最後に何が起きるのか。

 

全部知っていたら、

きっと

何も知らないで観ている時ほど

心は動かないはずです。

 

驚くことも、
迷うことも、

涙することも少なくなるでしょう。

 

わたしたちは、

 

分からないから

体験できます。

 

先が見えないから、
本気になれます。

 

人生も、
少し

似ているのかもしれません。

 

もし最初から、

自分が何者で、

何を経験し、

どこへ向かうのかを知っていたら。

 

この人生を、
ここまで真剣には

生きられなかったかもしれません。

 

だからわたしたちは、

一度忘れる。

 

それは失敗ではなく、

体験するための

仕組みとして。





実際、

わたしたちは

日々

たくさんのことを忘れています。

 

昨日の会話。

数年前の出来事。

子どもの頃の記憶。

 

必要なものだけを残して、

あとは静かに手放していく。

 

もし

何ひとつ忘れられなかったら、

きっと前には進めません。

 

忘れることは、

欠陥ではなく、

生きるために

備わった力なのだと思います。

 

そして、

忘却が仕組みだったのだとしたら。

 

思い出すこともまた、

流れの一部

なのかもしれません。




 

ある日ふと、

誰かの言葉に触れたとき。

 

ある場所に立ったとき。

 

説明できないのに、

なぜか胸の奥で

「ああ、そうだった」

と感じる瞬間があります。

 

新しいことを知った感覚ではありません。

 

むしろ、

ずっと知っていたものに
再会したような感覚です。

 

わたしは、

本当に大切なことほど、

学ぶというより
思い出す形で

やってくるように感じています。

 

苦しかったことも。

遠回りしたことも。

失敗したと思っていることも。 

 

今はまだ

意味が分からなくても、 


いつか振り返ったとき、 


「あの時間にも

役割があったのかもしれない」 


そう感じる日が、

きっと来るのだと思います。 

(あるいは

そう腑に落ちる瞬間が、いつか訪れます。)

 

なぜなら、

体験しなければ

分からなかったことがあるからです。

 

忘れたからこそ、

思い出せる。

 

離れたからこそ、

戻る意味が生まれる。

 

そう考えると、

人生の見え方が

少し変わります。

 

本音から離れてしまったことも。

 

迷い続けた時間も。

 

傷ついた出来事も。

 

間違いだったわけでは

なかったのかもしれません。

 

それらはすべて、

思い出すための

道のりだった。

 

だから、

思い出すとは

過去を

否定することではありません。

 

「あの頃は間違っていた」

ではなく、

 

「あの頃も必要だった」

と受け取れるようになること。

 

その上で、

もう一度

自分を生き始めること。

 

わたしは、


それが本当の意味での

変容なのだと思います。

 




ただ、

思い出すことは、

ゴールではありません。

 

むしろ、

そこからが始まりです。

 

なぜなら、

思い出したあとには、

必ず選択が待っているからです。

 

「思い出した私は、

これから何を選ぶのか」

 

次回は、

そのことについて

書いてみたいと思います。