解説:市立枚方宿鍵屋資料館・片山正彦学芸員
▼福知山市・福知山城
( TECHDさんによる写真ACからの写真 )

城の石垣は、短期間で修復しなければならないため、墓石などの転用石を大量に使っている。
民衆は喜んで供養塔などを提供した。
由良川に、500メートルもあった竹藪がある。
川の氾濫に苦しんでいた城下町を救うため、竹藪の堤防を作った。
1-なぜ本能寺の変を起こした?
1571年比叡山延暦寺の焼き討ち
同じ宗派の大津市・西教寺も焼き討ちした
焼き討ちの翌年から再建を始めた
城門の移築をするなどお寺を再建した。
自分が焼いたという罪悪感を感じていた。
自分が正しいと思うことをすると覚悟を決めた。
明智一族から寄付された一輪挿し
愛宕神社を4日前に訪れ、本能寺の変を決心した。
「時は今、天が下知る 五月かな」歌を詠んだ
日本をより良い国にするため、信長暗殺を
2-なぜ天下を取れなかった
1582年本能寺を襲撃
信長は、天下統一を目前に49歳の生涯を閉じた。
光秀は信長の遺体を見つけられなかった。
証明できない、味方するものがいない
秀吉がまだ生きていると嘘の情報を流した。
阿弥陀寺に信長にまつわる貴重なものがある
信長が使ったとされる槍先、弓を使った際の手袋
信長の墓の一つ
なぜ明智光秀は本能寺の変で、遺骸を見つけられなかったのか。
清玉上人は裏から入り
本能寺のお坊さんのふりをして
信長の遺骸を持ち出した。
お墓に入っているものまでは、暴かなかった。
3-光秀は生きていた
11日後、山崎の戦いで秀吉に敗北
農民に竹槍でつかれ、命を落としたとされる。
武士が農民に刺されるというのは、あまりにも不自然。
その後生き残り続けたとする説
西教寺に眠っている遺品
光秀の菩提寺に、秀吉の遺品があるのは不自然
秀吉黒幕説
約200キロ離れた秀吉が中国大返しで敵討ちに戻ってきたのは、不自然ではないか。
本能寺の変の後に妙心寺の仏殿に立ち寄った。
密宗和尚(光秀の叔父)に会いに来た。
光秀が託したお金で作られた
光秀が亡くなった後、弔うために大きな浴室を作った。
逆賊という汚名を洗い流すため。
2人にはなんらかのつながりがあったのではないか。
福知山城にある肖像画に和歌
光秀が仏門に入って僧侶になったと読み取れる記述がある。
本能寺の変の後も生き続けたという説がある。
京都の廬山寺は、焼き討ちの対象から外れた。
ここに光秀の遺品がある。
戦の時に必ず持っていった仏像・守護念持仏(高さ約17センチ)
光秀は、常に民に寄り添っていた。
「ドラマで描かれる歴史事件の定説を疑う」の記事はこちら(2017年6月17日)
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では、明日。