ビートルズ来日大フィーバーから来日50年
音楽評論家・湯川れい子さん
世界中のスーパースターの本音に迫り日本に洋楽が根付かせる立役者となった
伝説のロックバンド・ビートルズはリバプールで結成され、音楽で世界で席巻し、発言の一つ一つが世界中の注目を集めていた
1966年日本にもビートルズ旋風が吹き荒れた
コンサートで初めて日本武道館が使われ、2000人以上の警察官が配備され、物々しい警備体制
メンバーの宿泊したホテルにも多くのファンが集った
湯川さんは厳重な警備をすり抜け、メンバーの部屋へとたどり着いた
当時コンサートを主催する新聞社の依頼で特集する雑誌を編集
まわりは厳重に警備され取材どころではなかった
どうやって彼らの部屋を訪ねることが出来たのか
アポイントを取ったわけでも無かった
手回しをしてあった
警備員の腕章を届けるという名目
ポールが目をまんまるくして
「君は誰、どっから来たの」
「取材でなく、腕章を持って来ました。少しおしゃべりしていいですか」
「いいよ」
退屈しのぎに書いていた絵を見せてくれた
ジョン・レノンだけは会話に入って来なかった
あれから日本も変わった
来る前までは洋楽へのアレルギーも多く、なかなか理解してもらえなかった
実は女の子が飛びつくものは安全
「女が集まる所に流行が生まれる」とも言われた
父は海軍大佐、湯川さんは4人兄弟の末っ子
18歳年上の兄の影響で洋楽を聴くようになった。
兄が戦場に行くことになり、最後の休暇に目黒で3日間防空壕を掘っていた。
湯川はその作業を見ていた。
メロディのきれいな口笛を吹いていた。
曲名を尋ねたら「僕が作曲した歌だよ」
フィリピンで帰らぬ人となった
湯川はへんとうせんが悪く病気がちで、よくラジオで音楽を聞いていた。
米軍放送にダイヤルを合わせたら、流れていたスイートな音楽にハマって良く聴くようになった
ある日、兄の口笛のメロディが流れた
ハリー・ジェームスオーケストラの「スリーピー・ラグーン」という曲だった
1941年から42年にかけてアメリカで大ヒットした曲
真珠湾攻撃のさなかの敵国の音楽なんて、とんでもない時代。
聴いていたと家族にも言えなかった。
“兄の永遠の遺書”のようなもの
どうやって兄が聴いていたのかは永遠の謎
洋楽の原点として湯川さんの仕事につながった
やがて、兄の部屋からデザイン画が見つかった
アメリカのレコードジャケットを真似て書いていたもの
ロマンチックでやさしさのあふれている絵だった
恋人もいなくてそのまま戦地で亡くなってしまった
その後湯川さんは音楽評論家やDJとして活躍
洋楽の魅力を日本に紹介してきた
持ち前の交渉力で、プレスリーを初めとしてスーパースターたちとのインタビューも次々と実現してきた
中でも忘れられないのが、ジョンレノン
ビートルズ解散後、オノヨーコさんを通じて親交を深めてきた
1980年ファンを名乗る男の凶弾に倒れ帰らぬ人となってしまった
“いつも自分自身との問答の中に生涯をかけて来た、一種の詩人だった”
当時の訃報に対するコメントより
イギリスを訪問し、アビーロードなどビートルズゆかりの地を訪問した
音楽の歴史の生き証人
あの人に会いたい・もっと知りたい・もっと伝えたい
思いだけで、よく自分でも“ミーハー人生”に後悔ない
今はベビーメタルに夢中になっているの
小野アナウンサーは「イケメンなんですか?」
「アハハ」
ビルボード全米アルバムチャート39位にランクインした女性グループだと紹介
楽しく生きること
人種の違い・肌の色の違い・言葉の違いにこだわってほしくない
もちろん宗教もそうである
流す涙も笑う理由も同じ、笑顔の素晴らしさはみな同じ
80年代の洋楽・歌詞の持つ力
自分の中の純粋な気持ちが帰ってきた
ハッピーオーラがすごかったようだ。
番組内では触れられなかったが、湯川れい子セレクションの洋楽コンピレーションアルバムが発売された。
「音楽を愛して 音楽に愛されて」作詞編・洋楽編、それぞれ2枚組CD
収録には大変な苦労があった。
人生に大きな影響を与えて、語るものがあり許諾が取れた楽曲。
長年ラジオ関東で放送された全米トップ40を担当して洋楽とのつながり
ヒット曲を通じて知り合って今もつながりを続けているアーチスト
シンディー・ローパー、コリー・ハート。
エルビス・プレスリーの「ハートブレイクホテル」
その後世界のアーチストに衝撃を与えたと言われる曲。
21世紀に残す歌として、ラストは「イマジン」にしたかった
オノヨーコに、ジョンレノンの楽曲を使いたいと直談判したら、世界の規約でコンピアルバムには1曲目に入れないとだめなのよ
ジョン・レノンが日本人のオノヨーコと出会ったことによって生まれた曲
エンディングは、ブルース・スプリングスティーンの「ハイ・ホープス」
僕たちは子どもたちのために、共に立ち上がって高らかな望みを持って生きなければならない
1981年の年間1位・グラミー賞のレコードオブザイヤー、ソングオブザイヤー
キム・カーンズがジャッキー・デシャノンのカバー「ベティ・デイビスの瞳」を歌った。
日本人からしたら、“ベティ・デービスって誰?”
1930年代に活躍されていたアメリカの映画女優
見つめられたら、にらまれたら、男に未来はないのよ